↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/64

第4話「二つの名前」後半②




鐘の音が、鳴り終わる。


先に動いたのは、セリーヌさんだった。


水盤の縁に指先をひとつ触れると、こぼれて散っていた水が、音もなく水盤の中へ引き取られていく。まるで、はじめから何も起きなかったかのように。部屋は、乾いた昼の顔に戻った。


それから、セリーヌさんは、アルフォンス様を見た。


一瞥、だった。


長くはない。琥珀色の瞳が、扉口に立つアルフォンス様を上から下まで、静かになぞる。挨拶の目ではなかった。値打ちを測る目だった。硝子の棚の向こうから、標本をひとつ、検分するような。


その一瞥の底に、あの藍色が、ひとすじ流れた。


拾ったのは、たぶん、私だけだった。アルフォンス様は、金の瞳でただ、まっすぐに見返している。二人のあいだで、何かが音もなく擦れ違った。


「——ごきげんよう、フェルドラク様」


セリーヌさんは、折り目正しい礼をひとつした。


「リアネさんは、いい生徒です。この先が、とても楽しみ」


そう言って、微笑んだ。


この先が、楽しみ。指導のことを言っているようにも——別の何かを言っているようにも、聞こえた。どちらなのかを確かめる前に、セリーヌさんは私に小さく会釈をして、扉の向こうへ出ていった。


二人きりの旧図書室で、アルフォンス様が、口を開いた。


「……何が、あった」


水びたしだった水盤。押さえていた、私の袖。アルフォンス様は、見ていないはずのものの気配を、ちゃんと嗅ぎ取っていた。


「稽古で、少し、水をこぼしただけです」


嘘では、なかった。ぜんぶでも、なかった。


暴発のことも、袖の下の核が揺れたことも、言葉が喉の手前で止まった。言えば、心配させる。それに——何をどう言えばいいのかが、私自身、分からなかった。


アルフォンス様は、しばらく私を見ていた。それ以上は、訊かなかった。


その日の夜になっても、昼の静けさが、胸から消えなかった。


セリーヌさんは、何も言わなかった。


あの暴発を見て、何も。咎めもせず、驚きもせず、あの瞳をすっと細めただけ。あれは、見なかったということなのか。それとも、見て、黙ったのか。


時間がたつほど、言われなかったことのほうが、重くなっていく。


言われていれば、言い訳もできた。謝ることもできた。何も言われなかったから、私はただ、分からないものを抱えたまま夜を迎えていた。


寄宿舎の、自分の部屋。


机の上の水差しが、月明かりを薄く受けている。


私は、その前に、しばらく座っていた。


——タイダル・スレッド。


記録の名前で呼ばれた私の水は、暴発した。形をなぞる正確な水には応えなかったくせに、母様の形を見た瞬間、堰を切った。


だったら。


私は、水差しの水面に、指先をそっとかざした。


——潮縒りの糸。


母様の名前のほうで、呼んでみる。声には出さない。息を細く吐きながら、心の中で、その名前だけを。


糸が、一本、立ちのぼった。


細く、やわらかく、右に二度、左に一度。私が形を決めるより先に、糸のほうから、私の指へたわんで届く。月明かりの中で、それは小さく光りながら、指先にそっと巻きついた。


応えて、いた。


呼べば、応える。この名前で呼べば、私の水は、こんなにもやわらかく。


——怖い。


こんなに簡単に応えてしまうことが、怖かった。抑えて、隠して、ここまで生きてきたのに。名前ひとつで、水はこんなに嬉しそうに、私のところへ来てしまう。


怖いのに。


嬉しかった。


指先の糸を、私はしばらく、離せなかった。


記録の名前と、母様の名前。私の水がどちらの水なのか——その答えを、頭より先に、体が出してしまっていた。




※本作はnoteでも掲載中です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。