第4話「二つの名前」後半②
鐘の音が、鳴り終わる。
先に動いたのは、セリーヌさんだった。
水盤の縁に指先をひとつ触れると、こぼれて散っていた水が、音もなく水盤の中へ引き取られていく。まるで、はじめから何も起きなかったかのように。部屋は、乾いた昼の顔に戻った。
それから、セリーヌさんは、アルフォンス様を見た。
一瞥、だった。
長くはない。琥珀色の瞳が、扉口に立つアルフォンス様を上から下まで、静かになぞる。挨拶の目ではなかった。値打ちを測る目だった。硝子の棚の向こうから、標本をひとつ、検分するような。
その一瞥の底に、あの藍色が、ひとすじ流れた。
拾ったのは、たぶん、私だけだった。アルフォンス様は、金の瞳でただ、まっすぐに見返している。二人のあいだで、何かが音もなく擦れ違った。
「——ごきげんよう、フェルドラク様」
セリーヌさんは、折り目正しい礼をひとつした。
「リアネさんは、いい生徒です。この先が、とても楽しみ」
そう言って、微笑んだ。
この先が、楽しみ。指導のことを言っているようにも——別の何かを言っているようにも、聞こえた。どちらなのかを確かめる前に、セリーヌさんは私に小さく会釈をして、扉の向こうへ出ていった。
二人きりの旧図書室で、アルフォンス様が、口を開いた。
「……何が、あった」
水びたしだった水盤。押さえていた、私の袖。アルフォンス様は、見ていないはずのものの気配を、ちゃんと嗅ぎ取っていた。
「稽古で、少し、水をこぼしただけです」
嘘では、なかった。ぜんぶでも、なかった。
暴発のことも、袖の下の核が揺れたことも、言葉が喉の手前で止まった。言えば、心配させる。それに——何をどう言えばいいのかが、私自身、分からなかった。
アルフォンス様は、しばらく私を見ていた。それ以上は、訊かなかった。
その日の夜になっても、昼の静けさが、胸から消えなかった。
セリーヌさんは、何も言わなかった。
あの暴発を見て、何も。咎めもせず、驚きもせず、あの瞳をすっと細めただけ。あれは、見なかったということなのか。それとも、見て、黙ったのか。
時間がたつほど、言われなかったことのほうが、重くなっていく。
言われていれば、言い訳もできた。謝ることもできた。何も言われなかったから、私はただ、分からないものを抱えたまま夜を迎えていた。
寄宿舎の、自分の部屋。
机の上の水差しが、月明かりを薄く受けている。
私は、その前に、しばらく座っていた。
——タイダル・スレッド。
記録の名前で呼ばれた私の水は、暴発した。形をなぞる正確な水には応えなかったくせに、母様の形を見た瞬間、堰を切った。
だったら。
私は、水差しの水面に、指先をそっとかざした。
——潮縒りの糸。
母様の名前のほうで、呼んでみる。声には出さない。息を細く吐きながら、心の中で、その名前だけを。
糸が、一本、立ちのぼった。
細く、やわらかく、右に二度、左に一度。私が形を決めるより先に、糸のほうから、私の指へたわんで届く。月明かりの中で、それは小さく光りながら、指先にそっと巻きついた。
応えて、いた。
呼べば、応える。この名前で呼べば、私の水は、こんなにもやわらかく。
——怖い。
こんなに簡単に応えてしまうことが、怖かった。抑えて、隠して、ここまで生きてきたのに。名前ひとつで、水はこんなに嬉しそうに、私のところへ来てしまう。
怖いのに。
嬉しかった。
指先の糸を、私はしばらく、離せなかった。
記録の名前と、母様の名前。私の水がどちらの水なのか——その答えを、頭より先に、体が出してしまっていた。
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