↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/64

第4話「二つの名前」後半①



——正式な指導が始まって、何度目かの昼だった。


旧図書室の水盤を挟んで、セリーヌさんと向かい合う。糸を呼んで、息で細める。その稽古にも、少しずつ、体が馴染み始めていた。


その日、セリーヌさんは、古文書を開かなかった。


「今日は、約束を果たしましょうね」


——約束。


「前に、言ったでしょう。お母様の記録に残っている水の形を、わたくしはよく知っているの、と」


心臓が、ひとつ跳ねた。


「エレナ・フェルシーアの潮の糸。記録に残っている、その形を——再現してみせましょう」


セリーヌさんが、水盤に指先をかざす。


水面から、糸が立ちのぼる。一本、二本、三本。それは、いつもの正確な糸のはずだった。


でも、違った。


糸の、縒り方が違う。


三本の糸が、たがいに巻きつきながら、ゆるやかな螺旋を描いて昇っていく。右に二度、左に一度。その独特の縒りの癖を、私の目は、知っていた。私の指は、知っていた。井戸のそばで母様の手が私の手に重なったときの——あの、右に二度、左に一度。


——母様の、糸。


目の前で、母様の水の形が、組み上がっていく。


なのに。


その糸は、応えていなかった。正確で、冷たくて、寸分の狂いなく記録をなぞるだけの水。形は母様のものなのに、中身が、空っぽだった。母様の形をした、母様のいない水だった。


その齟齬を目が理解するより先に、私の奥の水が、動いた。


——だめ。


抑える。息を吐く。習ったばかりの呼吸で、細く、長く。


間に合わなかった。


水盤の水が、全部、立ち上がる。


糸どころではない。水盤の中身がまるごと、幾十もの細い糸になって、いっせいに私のほうへ伸びてくる。呼ばれたほうが先に応える、あの動きが、水盤ぜんぶの規模で起きていた。真昼の光の中で、水の糸が私に向かってたわみ、寄って、届こうとする。


「……っ」


私は、両手を引いた。それでも糸は伸びてくる。


そのとき、右の袖の下で。


火の核が、はっきりと、揺れた。


石の熱が、一拍、大きく脈打つ。私は左手で、袖の上からきつく押さえた。


水の糸が、力を失って、水盤へ落ちていく。


ばしゃり、と。ただの水の音がした。


旧図書室が、静まり返る。


セリーヌさんは、動かなかった。その視線は、水盤だけに向けられている。何も、言わない。ただ、琥珀色の瞳が、すっと細くなった。


硝子が黙っている。そんな静けさだった。


見られたのか。どこまで、見られたのか。水の暴発だけか。それとも。


——分からない。


私の左手は、まだ袖の上を押さえたままだった。


そのとき、扉が開いた。


「——早く終わったから、来た」


アルフォンス様だった。


昼と放課後の、境界が破れる。いつもなら鐘のあとに来るはずの人が、鐘より先に、そこに立っていた。金の瞳が、部屋の中の私たちを見る。水びたしの水盤。押さえたままの私の袖。向かいの、セリーヌさん。


遠くで、昼休みの終わりの鐘が、鳴り始めた。


三人が、同じ部屋にいた。


誰も、まだ、何も言わなかった。







※本作はnoteでも掲載中です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。