第4話「二つの名前」後半①
——正式な指導が始まって、何度目かの昼だった。
旧図書室の水盤を挟んで、セリーヌさんと向かい合う。糸を呼んで、息で細める。その稽古にも、少しずつ、体が馴染み始めていた。
その日、セリーヌさんは、古文書を開かなかった。
「今日は、約束を果たしましょうね」
——約束。
「前に、言ったでしょう。お母様の記録に残っている水の形を、わたくしはよく知っているの、と」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「エレナ・フェルシーアの潮の糸。記録に残っている、その形を——再現してみせましょう」
セリーヌさんが、水盤に指先をかざす。
水面から、糸が立ちのぼる。一本、二本、三本。それは、いつもの正確な糸のはずだった。
でも、違った。
糸の、縒り方が違う。
三本の糸が、たがいに巻きつきながら、ゆるやかな螺旋を描いて昇っていく。右に二度、左に一度。その独特の縒りの癖を、私の目は、知っていた。私の指は、知っていた。井戸のそばで母様の手が私の手に重なったときの——あの、右に二度、左に一度。
——母様の、糸。
目の前で、母様の水の形が、組み上がっていく。
なのに。
その糸は、応えていなかった。正確で、冷たくて、寸分の狂いなく記録をなぞるだけの水。形は母様のものなのに、中身が、空っぽだった。母様の形をした、母様のいない水だった。
その齟齬を目が理解するより先に、私の奥の水が、動いた。
——だめ。
抑える。息を吐く。習ったばかりの呼吸で、細く、長く。
間に合わなかった。
水盤の水が、全部、立ち上がる。
糸どころではない。水盤の中身がまるごと、幾十もの細い糸になって、いっせいに私のほうへ伸びてくる。呼ばれたほうが先に応える、あの動きが、水盤ぜんぶの規模で起きていた。真昼の光の中で、水の糸が私に向かってたわみ、寄って、届こうとする。
「……っ」
私は、両手を引いた。それでも糸は伸びてくる。
そのとき、右の袖の下で。
火の核が、はっきりと、揺れた。
石の熱が、一拍、大きく脈打つ。私は左手で、袖の上からきつく押さえた。
水の糸が、力を失って、水盤へ落ちていく。
ばしゃり、と。ただの水の音がした。
旧図書室が、静まり返る。
セリーヌさんは、動かなかった。その視線は、水盤だけに向けられている。何も、言わない。ただ、琥珀色の瞳が、すっと細くなった。
硝子が黙っている。そんな静けさだった。
見られたのか。どこまで、見られたのか。水の暴発だけか。それとも。
——分からない。
私の左手は、まだ袖の上を押さえたままだった。
そのとき、扉が開いた。
「——早く終わったから、来た」
アルフォンス様だった。
昼と放課後の、境界が破れる。いつもなら鐘のあとに来るはずの人が、鐘より先に、そこに立っていた。金の瞳が、部屋の中の私たちを見る。水びたしの水盤。押さえたままの私の袖。向かいの、セリーヌさん。
遠くで、昼休みの終わりの鐘が、鳴り始めた。
三人が、同じ部屋にいた。
誰も、まだ、何も言わなかった。
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