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第4話「二つの名前」前半③



——昼休みの旧図書室は、放課後とは、光の入り方が違っていた。


高い窓から、真昼の白い光がまっすぐ落ちてくる。書架の背が、その光にふちどられている。長机の向こう側、テオ様が座っていた椅子は、今日も空いたままだった。そのぶんの静けさが、部屋に薄く積もっている。


放課後はアルフォンス様の場所になるこの部屋も、昼のあいだは、セリーヌさんと私の時間だった。


「今日から、正式に始めましょうね」


セリーヌさんは、長机に一冊の古い書物を開いた。テラスの、革表紙の古文書。ページのふちが、飴色に焼けている。


「この術式には、名前があります」


細い指が、一行の古い文字を、そっとなぞった。


「タイダル・スレッド。潮の、糸。水を細い糸にして、それを束ねて形にする。古い、いちばん基礎の術です」


タイダル・スレッド。


私は、その響きを、口の中でくり返した。記録の中の、正しい名前。冷たくて、きちんと角の立った、書物の名前だった。


「まず、わたくしがやってみますね」


セリーヌさんが、指先を、机の上の水盤にかざした。


水面から、細い糸が立ちのぼる。一本、二本、三本。どれも同じ太さで、同じ長さで、定規で引いたようにまっすぐ空中に並んだ。糸はセリーヌさんの指の動きをなぞり、順に折り重なって、小さな籠の形に組み上がっていく。


正確だった。寸分の狂いもなかった。


けれど、その糸はどこまでも澄んで冷たくて——応えてはいなかった。セリーヌさんが動かすとおりに動く。ただ、それだけ。糸のほうから何かを返してくることは、なかった。


その水に、ほのかに、藍の温度が滲んでいた。


底のほうに沈んだ、夜の藍色。セリーヌさんの澄んだ横顔からも、書物の飴色からも遠い、ひとすじの冷たい温度。


——あの藍色。


それを拾ってしまうのは、たぶん、私の肌だけだった。なぜ拾えるのかは、わからない。セリーヌさんは、何も言わない。私も、何も言わなかった。ただ、その温度がそこにあることだけを、私は知っている。


セリーヌさんが指を止めると、水の籠は、するりとほどけて水盤へ戻った。


「では、あなたも」


私は、水盤に、指先をかざした。


眼鏡は、かけたまま。抑えた、ぎりぎりの力で。記録どおりに、教わったとおりに、水を細い糸にする。


——タイダル・スレッド。


そう、頭の中で名前を唱えて、糸を呼んだ。


水面から、糸が立ちのぼる。一本、二本。そこまでは、セリーヌさんの手本と、同じだった。


けれど、三本目が。


三本目の糸が、私の指をなぞる前に、ふいにひとりでに伸びた。


まるで、呼ばれたほうが先に応えるみたいに。私が形を決めるより早く、糸のほうが、私の指へやわらかくたわんで届いてきた。冷たく整列するのではなく、ほどけて伸びて、こちらへ寄ってくる。


「……あ」


私は、思わず手を止めた。


こんなつもりは、なかった。抑えていたはずだった。強く出したわけでも、本気を出したわけでもない。ただ、教わったとおりにしただけ。なのに、水のほうが勝手に、応えてしまった。


なぜ、応えたのか。私には、言葉にできなかった。


でも、体の奥では、知っていた。


この、ほどけて応える糸を、私はずっと前から知っている。


——潮縒りの糸。


母様が、そう呼んでいた。麦畑の家の、井戸のそばで。まだ小さかった私の指に母様の手が重なって、水がやわらかく応えたときの、あの感じ。母様は、水の糸を「潮縒りの糸」と呼んでいた。「これはね、命じるものじゃないのよ」と、静かに笑いながら。


タイダル・スレッド。潮縒りの糸。


同じ、一本の糸のはずだった。記録の中の名前と、母様の声の中の名前とでは、糸の応え方がまるで違っていた。


「呼吸を、忘れていましたね」


セリーヌさんの声が、私を引き戻した。


「糸の細さは、あなたの息で決まります。深く吸えば、糸は太く。細く吐けば、糸は細く。息で、水を統べるの。今日は、まず、それだけを」


言われたとおり、細く長く、息を吐いた。


すると、暴れかけた三本目の糸が、ゆっくりと細さを取り戻していく。呼吸が水を導く。その感覚は、初めてなのに、どこか懐かしかった。


——これが、統御の、一歩目。


まだ、糸を思いどおりに束ねることはできない。形にするには、遠い。でも息で水を細める、そのひと呼吸ぶんだけは、私の中で繋がった。


昼休みの終わりの鐘が、遠くで鳴っている。


セリーヌさんは、古文書を閉じた。琥珀色の瞳が、一度だけ、まっすぐに私を見た。何かを、時ごと閉じ込めたまま動かない目だった。その奥が何を思っているのかは、読めない。


「筋が、いいですね」


そう言って、微笑んだ。


私は、右の手首のブレスレットを、指先でそっと押さえた。火の核の温もりが、手のひらに灯っていた。


同じ一本の水に、二つの名前がある。


記録の名前と、母様の名前。そのあいだで、私の水がどちらに応えるのかを——私はまだ、知らないままだった。







※本作はnoteでも掲載中です。

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