第4話「二つの名前」前半②
——次の日の放課後、私は学院長室の前に立っていた。
重い樫の扉。その前で、私は一度、深く息を吸った。手首のブレスレットを、左の手のひらでそっと確かめる。火の核は、小さく確かに灯っていた。それだけが、少しだけ、私を落ち着かせた。
——無事に卒業して、静かに消える。それだけが、私の目標だったはずなのに。
学院でいちばん上の人に名指しで呼ばれるなんて、その目標から、いちばん遠いことだった。
扉を叩くと、低く落ち着いた声が「どうぞ」と応えた。
学院長室は、思っていたよりも、ずっと静かだった。
高い窓から、夕方の光が斜めに差し込んでいる。壁の一面は、古い本で埋まっていた。その部屋の奥の机の向こうに、一人の女性が座っていた。
学院長のマルガレーテ先生だった。
銀色の髪を、ひと筋の乱れもなく結い上げている。背筋が、まっすぐに伸びていた。歳は五十を過ぎているはずなのに、その佇まいには、隙というものがなかった。穏やかに微笑んでいる。けれど、その微笑の奥には、底の見えない静けさがあった。
「よく来てくれましたね、リアネさん」
低く、ゆっくりとした声だった。
「かけてちょうだい」
部屋には、もう一人いた。
窓際に立っている、老教師。ヴァルター先生だった。白髪交じりの髪に、丸い銀縁の眼鏡。入学した春から、私の実技を見てきた先生。
その先生が、なぜ、ここにいるのか。
私が小さく会釈すると、ヴァルター先生は、いつものように穏やかに頷いた。ただ、それだけだった。
私は、勧められた椅子に、浅く腰を下ろした。
マルガレーテ先生の視線が、まっすぐに私へ向けられている。優しい目だった。でも、その奥で、何かを見定められているような気もした。優しいのか、測られているのか。私には、その区別がつかなかった。
「セリーヌさんから、聞いています」
マルガレーテ先生が、切り出した。
「あなたが、古代の水術式に、めざましい才を見せていると。中央魔導院の彼女が、わざわざ個人指導を願い出るほどに」
「……いえ、私は、そんな」
「謙遜は、いりません」
その一言だけ、すっと、温度が下がった。
私は、思わず口をつぐんだ。
マルガレーテ先生は、また穏やかな微笑に戻って、続けた。
「ひとつだけ、見せてもらえますか。あなたの水を。ほんの少しで、かまいません」
——来た。
私は、膝の上で、両手を組んだ。
眼鏡は、かけたままだった。だから、出せるのは、いつもの最下位の水だけ。本当の底は、見せない。見せては、いけない。入学の魔力測定でそうしたように、ぎりぎりの、ありふれた水だけを。
私は、指先に、ほんのひと匙ぶんの水を呼んだ。
眼鏡越しの、薄くて、頼りない水。指の先に、小さな雫がひとつ、ふるりと浮かんだ。それだけの、ささやかな水。
それを見て、マルガレーテ先生の目の奥が——ほんの一瞬、動いた。
何かに気づいたような、深いところで揺れたような、そんな動きだった。けれど、それはすぐに、もとの穏やかな静けさに戻る。早すぎて、見間違いかと思うほどだった。
そのとき、窓際のヴァルター先生が、低くつぶやいた。
「……抑え方が、ずいぶん上手になりましたね」
私の心臓が、ひとつ、跳ねた。
ヴァルター先生は、丸い眼鏡の奥の目を、私へ向けている。入学した春から、ときどき私を見ていた、あの目だった。
「あなたが入学してきたときから、わたしには、ひとつ腑に落ちないことがありました。あのゼノ・フェルシーアの妹が、どうして、特待生の最下位の席にいるのか」
——兄様の、名前。
ヴァルター先生は、兄様を知っていた。だから、私を見ていたのだ。ずっと「力を見抜かれている」のだと思って、私は身構えていた。でも、ちがった。先生はただ、兄を知る目で、その妹の妙なちぐはぐさを見ていただけだった。
「魔力は、並にも届かないと記録にはある。けれど、それにしては——あなたの水の畳み方は、丁寧すぎる」
「ヴァルター先生」
マルガレーテ先生が、その名を呼んだ。
それ以上は言うな、というふうにも聞こえた。ヴァルター先生は、小さく頷いて、口を閉じた。
マルガレーテ先生は、私のほうへ視線を戻した。
「フェルシーア」
その名を、低く繰り返した。その声には、ただ生徒の家名を口にする以上の重さが、ほんの一瞬だけ滲んだ。遠い昔を、その名の奥に見ているような。
先生は、それ以上は何も言わなかった。
「あなたを一組に入れたのは、わたしです」
その一言は、思いがけないものだった。
「最下位の魔力量の特待生を、最上位の一組へ。妙な人事だと、職員のあいだでも言われました。それでも、わたしがそう決めた」
——なぜ。
その問いが、喉まで出かかった。でも、それを訊くことは、自分から「私には何かある」と認めるのと同じだった。だから、私は、訊けなかった。
マルガレーテ先生は、また穏やかに微笑んだ。
「セリーヌさんの個人指導を、正式に許可します。あなたは、もっと深いところまで、学ぶべき人です」
その言葉は、優しかった。優しかったのに、私の背筋に、なぜだかひやりとしたものが走った。
私は、ただ消えたいだけだった。静かに卒業して、誰の記憶にも残らずに消える。帝国の魔法の管理から外れた場所で、息をひそめて生きていく。それだけが、望みだった。
なのに、この人たちは——私を、消させてくれそうになかった。
学院長室を出て、私はひとり、廊下を歩いた。
許可は、下りた。これからは、セリーヌさんと、正式に学べる。母様の昔を、もっと知れる。喜ぶべきことのはずだった。
なのに、胸の奥が、ざわついて仕方なかった。
マルガレーテ先生の、あの一瞬の目。ヴァルター先生の、「フェルシーアの妹」という言葉。私を一組へ入れたという、あの告白。二人のあいだに流れていた、見えない糸のようなもの。
——あの二人は、最初から、私を見ていた。
入学のときから感じていた、あの「なぜか一組に」という小さな違和感。その答えが、いま、すぐそこまで来ている気がした。
私は、右の手首のブレスレットを、そっと握った。
火の核は、変わらず、静かに灯っていた。その温かさだけを頼りに、私は夕暮れの廊下を、寄宿舎へと急いだ。
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