第4話「二つの名前」前半①
——その日も、放課後の旧図書室に、二色の光が流れていた。
私の水の青と、アルフォンス様の火の橙。合わせ技の結界は、もう何度も張った。水を呼ぶ呼吸も、火を迎える間も、ずいぶん馴染んでいた。
ただ、火の揺らぎだけは、まだ続いている。
今日も結界の中で、アルフォンス様の指先の火が二度、芯から小さく傾いた。私の手首の核も、それに合わせて揺れた。理由は、相変わらず分からないまま。
それでも私は、この時間を、手放したくなかった。揺らぐ火のことを抱えていても、二人で同じ膜の中にいる、そのことだけが変わらず温かかった。
膜を引いて、帰り支度を始めたときだった。
旧図書室の重い石の扉が、外から控えめに叩かれた。
私とアルフォンス様は、顔を見合わせた。この部屋に、誰かが訪ねてくることなんて、めったにない。
扉を開けると、立っていたのは、セリーヌさんだった。
「ごめんなさいね、お邪魔して」
セリーヌさんは、いつもの穏やかな微笑を浮かべて、そう言った。その琥珀色の瞳が、私の後ろのアルフォンス様を一度だけ見て、それから私に戻った。
「リアネさんに、お知らせがあって来たの」
「あなたへの個人指導のことが、正式に認められることになりました」
セリーヌさんは、穏やかにそう言った。
「これまでは、わたくしが個人的に教えていただけだったでしょう。でも、これからは学院の許可を得た正式な指導として、続けられるの」
——正式な、個人指導。
それは、いいことのはずだった。母様の昔を教えてくれるセリーヌさんと、もっと深く水術式を学べる。怖がる理由なんて、どこにもない。
「それで、ね」
セリーヌさんの声が、ほんの少しだけ、改まった。
「学院長先生が、あなたに一度、会っておきたいそうなの。明日の放課後、学院長室へ来てちょうだいな」
——学院長先生。
その言葉に、私の心臓がひとつ、小さく跳ねた。
学院長先生に、直接会う。平民の特待生が、そんなふうに名指しで呼ばれることなんて、普通はない。私は、目立たないように生きてきた。誰の記憶にも残らないように。なのに、その私が、学院でいちばん上の人に呼ばれている。
「……どうして、私なんかを」
思わず、そう訊いていた。
「個人指導を許すかどうかを、ご自分の目で確かめたいのでしょうね」
セリーヌさんは、やわらかく微笑んだ。
「心配いらないわ。ただ、会うだけ。あなたの水を、少し見せてほしいと言われるかもしれないけれど」
——水を、見せる。
その一言が、私の中で、小さく引っかかった。
セリーヌさんが帰ったあと、私とアルフォンス様は、しばらく黙っていた。
「……行くのか」
先に口を開いたのは、アルフォンス様だった。
「はい。呼ばれたら、行かないわけには」
アルフォンス様は、金の瞳で、少しのあいだ私を見ていた。何かを言いかけて、やめた。そのかわりに、低く、ひとことだけ言った。
「無理は、するな」
「……はい」
その短い言葉の奥に、案じる温度があるのは、共鳴系でなくても分かるくらいだった。
寄宿舎へ戻る北廊下を、私はひとりで歩いた。
学院長先生が、私の水を見たいかもしれない。その意味を、私はうまく飲み込めずにいた。
私の水は、眼鏡で抑えている。本当の底は、母様と兄様と、自分しか知らない。それを、学院でいちばん上の人の前で、見せることになるかもしれない。
——ふと、思い出した。
ヴァルター先生の、あの視線を。
一年生のときから、ヴァルター先生は、ときどき私を静かに見ていた。特別な態度は、何も取らない。ただ、見ていた。あのときの、何かを見透かすような目を、なぜだか思い出していた。
——気のせい、かもしれない。
そう思いながらも、胸の隅の小さな不安は、消えなかった。
部屋に戻って、私は右の手首のブレスレットを、左の手のひらでそっと確かめた。
火の核は、薄水色の石のいちばん深いところで、静かに灯っていた。
——温かい。
その温かさだけは、こんなときでも、迷わなかった。
けれど明日、学院長先生の前で、自分の水がどうなるのか。それを思うと、私はその夜、なかなか寝つけなかった。
※本作はnoteでも掲載中です。




