第3話「揺らぐ火」間章
カトリーヌ・ド・ルミエールは、いつものように完璧だった。
結い上げたプラチナブロンドの一筋も乱れていない。背筋は伸び、唇には、生まれたときから貼りついているような上品な微笑が浮かんでいる。ルミエール公爵家の令嬢として、それは呼吸と同じだった。崩し方を、彼女は知らない。
その完璧な微笑のまま、カトリーヌは中庭の回廊の柱の陰から、ひとつの光景を見ていた。
アルフォンス・カシウス・フォン・フェルドラク。
漆黒の髪に、金の瞳。災害のような火を持つ、フェルドラク侯爵家の令息。彼が、笑っていた。
その隣にいるのは、あの平民の特待生だった。
笑っていた。
カトリーヌが知っているアルフォンス・フォン・フェルドラクは、笑わない人だった。誰にも心を開かず、誰のことも視界に入れず、氷のように整った無表情で世界の半歩外側に立っている人。それが、彼だった。
その彼が、あの猫背で亜麻色の髪をした平民の隣で、口の端をやわらかくしていた。
カトリーヌの微笑は、崩れない。
その微笑の下のどこか深いところで、細くて確かな音を立てて、何かにひびが入った。
——どうして。
声には出さなかった。けれど胸の中で、その問いだけが何度も跳ねた。
どうして、あの人なの。どうして、わたくしではなく。
それに、わたくしには、れっきとした理由があった。
フェルドラク侯爵家とルミエール公爵家。二つの家のあいだには、まだ正式に解かれていない縁談の話があった。家格でいえば、アルフォンスの隣に立つのにふさわしいのは、ルミエール公爵家のわたくしのはずだった。
それなのに、あの人は。
家の決めた縁よりも、あの猫背の平民のほうへ、その金の瞳を向けている。
わたくしは、ただ選ばれなかったのではない。家の縁ごと、あの平民に追い抜かれたのだ。
思い出すのは、いつも、あの実技棟の日のことだった。
カトリーヌは、星型の銀の髪飾りから、ほんの細い光の糸を伸ばした。あの平民の内側を、確かめるために。最下位の水しか使えないはずのあの娘が、なぜアルフォンス様の目に留まるのか——その理由を、知りたかっただけだった。
けれど、あの娘の内側には、見たことのない深い水があった。
それを最後列から見ていたアルフォンスが、翌朝の廊下で、カトリーヌに静かにこう言ったのだ。
「教室では、外せ」
たった、それだけ。
声を荒らげるでもなく、責めるでもなく。ただ、氷のような金の瞳で、まっすぐにカトリーヌを見て。その目が言っていたものを、カトリーヌは、今でも忘れられない。
——あれは、あの娘を、庇う目だった。
公爵家の令嬢であるわたくしを、侯爵家の令息が、たかが平民の特待生のために見限った。
その屈辱が、ひと月たった今も、胸の奥でくすぶり続けていた。
「——あなたも、あの子が気になるのね」
ふいに、すぐ隣で、声がした。
カトリーヌが顔を上げると、いつのまにか、ひとりの令嬢が同じ柱の陰に立っていた。
アッシュブラウンの長い髪。琥珀色の瞳。中央魔導院から来たという、編入生のセリーヌ・ヴェル・マレだった。穏やかで、優しげで、どこにも棘のない微笑を浮かべている。
「……ごきげんよう、セリーヌさん」
カトリーヌは、完璧な微笑を、すかさず貼り直した。
「気になる、だなんて。わたくし、ただ中庭の景色を眺めていただけですわ」
「そう」
セリーヌは、咎めなかった。ただ、その瞳をアルフォンスと平民のほうへ、ゆっくりと流した。
「でも、ね。わたくしも、あの子のことが、少し気になっているの」
その声は、あくまで穏やかだった。けれどその穏やかさの底に、カトリーヌの令嬢としての勘が、ひやりとするものを嗅ぎ取った。
この人は、わたくしと同じ側にいる。
そう、思った。
「あの子の水はね、ほんとうは、とても珍しいものなの」
セリーヌは、景色を眺めるように、軽く言った。
「最下位だなんて、とんでもない。あれは、隠されているだけ。中央の記録に残るような、特別な血の水よ」
——特別な、血。
カトリーヌの微笑の下で、ひびがまた細く伸びた。
あの平民が、特別。隠された血。それが本当なら——アルフォンスがあの娘を庇うのも、笑いかけるのも、ぜんぶ。
「あなたがどう思っているかは、訊かないわ」
セリーヌは、優しく微笑んだまま、そっと言った。
「ただ、あの子のことをもっと知りたいと思ったときは——わたくしに、声をかけてちょうだいな。わたくしたち、きっと、同じものを見ているはずだから」
そう言い残して、セリーヌは回廊の向こうへ歩き去っていった。
カトリーヌは、ひとり、柱の陰に残された。
中庭では、まだアルフォンスとあの平民が、何か言葉を交わしている。アルフォンスの口元は、まだ、やわらかいままだった。
カトリーヌの指が、無意識に、結い上げた髪の中へ伸びた。
そこに、しまい込んでいた星型の銀の髪飾りの、冷たい感触があった。アルフォンスに「外せ」と言われてから、教室ではずっと着けずにいた、あの髪飾り。
その冷たい星の縁を、カトリーヌの指先が、ゆっくりとなぞった。
「……わたくし、まだ、何も終わっていませんのよ」
誰にも聞こえない声で、そう、呟いた。
完璧な微笑は、もう、貼りついていなかった。そのかわりに、その美しい顔には、ひと月くすぶり続けた火が静かに灯っていた。
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