第3話「揺らぐ火」前半④
——その日も、私たちは合わせ技の結界の中にいた。
水の膜の中を、私の水の青とアルフォンス様の火の橙が、混じり合わないまま静かに流れている。アルフォンス様の火は、今日も私のそばで、唸りをほどいて凪いでいた。
その凪いだ火を見ているうちに、私はまた、あの不釣り合いのことを思い出した。
——アルフォンス様は、火をほどいてくれている。なのに、私は。
自分から眼鏡を外したことは、一度だけある。あの夏の、この旧図書室で——自分でも驚きながら、「もう、いい」と。でも今日は、驚かない。最初から、見せるために外すと決めていた。
「アルフォンス様」
私は、低く呼んだ。
「私も、見せます」
「……何を」
「私の、本当の水を。素顔を」
アルフォンス様の金の瞳が、こちらへ向けられた。何も言わなかった。ただ、その瞳が、待つように私を見ている。
私は、右手を、自分の眼鏡の縁にかけた。指先が、少しだけ震えた。
母様が出発の朝にくれた、この眼鏡。素顔と魔力を、泥で塗りつぶすように隠してくれる、私の守り。この眼鏡を外すのは、フェルシーアの家のほかでは、ほとんどないことだった。
——アルフォンス様には、前にも素顔を見られている。
入学してすぐの頃、廊下で落とした眼鏡を拾われたとき。それから今年の夏、家を訪ねてきたアルフォンス様の前で、私は眼鏡を外したままだった。どちらも、私が見せようとしたわけではなかった。
でも、今日は違う。事故でも、家でもなく。私が自分の意志で外して、私のほうから、本当の水ごと見せる。
——アルフォンス様が、火をほどいてくれたから。
だから、私も。
私は、眼鏡を外した。
——世界が、変わった。
いつもレンズの向こうで薄くぼやけていた書架の輪郭が、急にくっきりと立ち上がった。それと同じ速さで、私の体の奥が、目を覚ました。
いつもは眼鏡が蓋をしている、いちばん深いところ。そこに沈んでいた夜の海が、蓋を失って、ゆっくりと満ちてきた。冷たくて、深くて、底が見えない水。それが指の先まで、髪の一筋まで、私の全部にまっすぐ通っていく感覚だった。
水の膜が、私の魔力に応えて、ふいに厚みを増す。膜の中の青が、さっきまでよりもずっと濃く、深い色になった。
剥き出しの、私。
亜麻色の前髪の下で、いつもは伏せている目を、私はまっすぐ上げた。レンズを隔てていない、深海の色をした私の瞳が、アルフォンス様を見た。
アルフォンス様は、動かなかった。
金の瞳が、私の目を、まっすぐに見ていた。逸らさない。まばたきさえ惜しむみたいに、私の深海の瞳を、ただ見ていた。
「……その顔だ」
低い声だった。
「廊下で眼鏡を拾ったときも、見た。今年の夏、井戸のところでも。——魔力があふれた日、この部屋でも。お前の、剥き出しの顔」
——数えて、いた。
廊下で落とした眼鏡を拾われた、あの一瞬。家を訪ねてきたアルフォンス様の前で、眼鏡を外していたあの夏。魔力があふれて、自分からこの部屋で外した、あの日。亜麻色の髪も、日に焼けた頬も、深海の色をした瞳も、ぜんぶ見られていた。アルフォンス様は、その一度ずつを、ずっと覚えていた。
「でも——見せる、と先に言ってから外したのは、これが初めてだ」
アルフォンス様は、それでも目を逸らさなかった。
金の瞳が、私の深海の瞳から亜麻色の髪へと、ゆっくり巡った。
一瞬も見逃すまいとするみたいに。隅々まで、もう一度覚え直すみたいに。逃げ場が、どこにもなかった。
「自分から見せるとは、思わなかった」
恥ずかしくなって、私は目を伏せかけた。
「伏せるな」
低い声が、それを止めた。
「せっかく、また見られたんだ」
「……そんなに、見ないでください」
「無理だな」
きっぱりと、そう言われた。
私の頬が、火の核よりも熱くなっていた。
「……水、出してみても、いいですか」
私が小さく訊くと、アルフォンス様は、低く「ああ」と応えた。
私は、解放された水を、指先にひと雫だけ呼んだ。
眼鏡をかけているときの、最下位の水とは、まるで違った。
指先に集まった水は、ひと雫なのに深い青の光を宿して、小さな夜の海のように私の手のひらの上で静かに渦を巻いた。
「綺麗だな」
アルフォンス様が、低くこぼした。
それから、自分の指先にも、ひと粒の火を灯した。橙の火と深い青の水が、私たちの指先の間で向かい合った。
「……混ぜたら、どうなるかな」
私が言うと、アルフォンス様の口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「やってみるか」
私は水のひと雫を、アルフォンス様の火のほうへそっと近づけた。
火と水が、触れた。
普通なら、じゅっと音を立てて、どちらかが消える。解放された私の水は、アルフォンス様の火と触れたところで、消えるかわりに白い湯気をふわりと立ち上げた。
その湯気が結界の中の薄い光を受けて、きらきらと宙に小さな星屑みたいに散った。
「わ……」
私は、思わず声を上げた。
アルフォンス様も、その湯気の星屑を、金の瞳で追っていた。その横顔から、いつもの張り詰めた感じが、すっかり消えている。火を分け合い、水を見せ合って、二人でこんなに無防備に笑っていた。
星屑が、ふたりの指先のまわりに、ゆっくりと舞い落ちる。
そのひとつが、私の手の甲にふわりと触れて、温かい水滴になって消えた。
アルフォンス様が、その雫を追うように、私の手へ手を伸ばした。大きな手のひらが、私の手の甲に、そっと重ねられた。革手袋を外したままの、素手。火を持つ手なのに、その手のひらは火傷しそうな熱さではなく、ただじんとあたたかかった。
「……あ」
私が顔を上げると、すぐ近くに、アルフォンス様の金の瞳があった。
思っていたよりも、ずっと近かった。星屑の名残の光が、その金の瞳の中で、小さく揺れている。
——近い。
心臓が、ひとつ、大きく鳴った。
アルフォンス様は手を離さず、私も、離せなかった。
眼鏡を外した私の顔を、アルフォンス様の金の瞳がまた、まっすぐに見ていた。
さっきまでの無邪気な笑いが、ふいに別の熱をおびたものに変わっている。
私の頬が、火の核よりも熱くなっているのが自分でも分かった。
その時だった。
私の指先の水が、ふいに、ぐらりと揺れた。
ちがう。揺れたのは、水ではなかった。
アルフォンス様の指先の火が、解放された私の水のすぐそばで、いままで見たことがないほど大きくぐらりと傾いた。私の手首のブレスレットの火の核も、それに引きずられるように、強く揺れた。
「……っ」
アルフォンス様が、低く息を呑んだ。
凪いでいたはずの火が、私が眼鏡を外して水を解放したちょうどその瞬間に、いちばん大きく揺れた。
——揺らぐ火。
その兆しは、私の水の解放と、たしかにどこかで繋がっている。
そのことに、私はこのとき、初めて気づいてしまった。
けれど、それが何を意味するのかは——まだ、何も分からなかった。
※本作はnoteでも掲載中です。




