第3話「揺らぐ火」前半③
——それから、私たちは放課後のたびに、合わせ技の結界を張るようになった。
水を呼んで、薄い膜を立てる。
アルフォンス様が革手袋を外して、素手の指先の火を、その膜の縁にそっと触れさせる。
火が膜の中へほどけて、二色の光が、混じり合わないまま膜のおもてを流れる。
何度やっても、その瞬間だけは、胸の奥がしんとした。
合わせ技は、すぐにうまくいったわけではなかった。
私の水が膜になる前に、アルフォンス様の火が先に出てしまったり。
逆に、私が水を呼びすぎて、せっかくの火がじゅっと小さくなってしまったり。
そのたびに私たちは顔を見合わせて、どちらからともなく小さく笑った。
「お前の水は、せっかちだ」
「アルフォンス様の火こそ、気が早いです」
そんな、なんでもない言い合いをした。
学院では誰の前でも、私は猫背で、目立たないように口をつぐんでいる。
アルフォンス様も、誰にも心を開かない無表情でいる。
なのに、この旧図書室の長机の二人だけの結界の中でだけ、私たちは少しだけ素のままになれた。
放課後のその時間が、私はいつのまにか、一日のうちでいちばん大切になっていた。
そして、何度か重ねるうちに、私はひとつ気づいたことがあった。
——この結界の中だと、アルフォンス様の火が、静かになる。
最初に気づいたのは、火が膜に溶けたときの、熱の質だった。
アルフォンス様の火は、普段、いつも少しだけ気を張っているような熱をしていた。
指先のすぐ上で空気を焦がし、低い唸りを連れ、放っておくと周りのものへ燃え移りたがる。
そういう抑えつけられた猛々しさが、いつも芯にあった。
でも、私の水の膜の中に入ると、その猛々しさがほどけた。
唸りが消えて、空気を焦がす匂いも薄れて、火はただ橙の灯りのまま静かに膜の内側を巡った。
まるで、ずっと力を入れていた手のひらを、やっと開いたみたいに。
——凪いでいる。
そう、思った。
「アルフォンス様の火、ここだと、穏やかですね」
私が小さく言うと、アルフォンス様は自分の指先の火を一度見て、それから低く応えた。
「……お前のそばだと、楽なんだ」
でもその一言を、私の共鳴系の肌は、まっすぐに受け取った。
楽、という言葉の奥にあるものを。火が強すぎて近づくと焼けるから、生まれてからずっと、誰のそばでも気を張り続けてきた人。
その人が、私の水の膜の中でだけ、その気をほどいている。
それが、どれだけのことなのか。
私は、声にはしなかった。けれどその事実が、私の胸の奥に温かく、こわいくらいの重さで残った。
その日の帰り際だった。
北廊下を並んで歩きながら、アルフォンス様が、ふいに言った。
「お前、誕生日いつだ」
「……え」
思いがけない問いだった。
家にいた頃は、誕生日は家族と過ごすものだった。母様も父様も兄様も、その日は私のために、ほんの少しだけ特別にしてくれた。
でも学院に来てからは、自分の誕生日を、なるべく意識しないようにしている。目立たないように、誰の記憶にも残らないように生きてきた私にとって、その日はわざわざ口にするものではなかった。
そして今年は、家族のいないこの学院で迎える、初めての誕生日だった。
「……もうすぐ、です。冬の、はじめごろ」
「そうか」
アルフォンス様はそう言ったきり、なぜ訊いたのかは言わなかった。私も、訊き返せなかった。その短いやりとりのあとで、アルフォンス様の横顔が、いつもより少しだけ何かを考えているように見えた。
北廊下の角を曲がるとき、私はふと、背中に視線を感じた。
振り返ると、廊下の反対の端に、プラチナブロンドの髪を結い上げた令嬢が立っていた。カトリーヌ・ド・ルミエール様だった。
その完璧に整った横顔は、こちらを見ているようで、見ていないようでもある。けれど共鳴系の私の肌は、その方向から流れてくるひやりと細い何かを、一筋だけ拾った。あの藍色とは違う。もっと固くて、冷たい色。
それは、私とアルフォンス様が並んで歩くその並びのほうへ、まっすぐ向けられていた。
カトリーヌ様は、すぐに踵を返して、廊下の向こうへ消えた。
実技棟のあの日から、ひと月。カトリーヌ様は、あれ以来、私に何も仕掛けてこなかった。だから私は、その冷たい一筋のことを、深くは考えないことにした。
それでも、その視線が私とアルフォンス様の並びに向いていたことだけが、胸の隅に残った。
寄宿舎へ戻る道で、私は、ひとつのことを思っていた。
アルフォンス様の火は、私のそばで凪ぐ。気を張り続けてきたあの人が、私の前でだけ、その力をほどく。
——なのに、私は。
私はまだ、アルフォンス様の前で、自分から眼鏡を外したことはなかった。
アルフォンス様が火をほどいてくれているのに、私はいちばん深いところを、まだ眼鏡の奥に隠したままだった。火と水を合わせて、あんなに近くで結界を張っているのに。その片側だけが開いていて、もう片側は、まだ固く閉じている。
その不釣り合いが、ふいに、胸に刺さった。
部屋に戻って、私は右の手首のブレスレットを見た。
ブレスレットの火の核も、手首の上で穏やかに灯っていた。アルフォンス様の火が私のそばで凪ぐのと、同じように。
——でも。
凪ぐのは、嬉しい。それは本当だった。
けれど、あの揺らぐ火の正体は、まだ何も分かっていなかった。なぜ揺れるのか。なぜ凪ぐのか。私たちは、その理由も知らないまま、火と水を毎日のように混ぜ合わせている。
分からないものに、二人で、こんなに近く触れている。
その怖さが、凪いだ火の温かさの裏で、消えずに小さく灯っていた。
——もうすぐ、誕生日。
その日が近づいていることだけが、なぜだか、ひどく落ち着かなかった。
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