第3話「揺らぐ火」前半②
——次の日の放課後も、私は旧図書室にいた。
長机のこちら側、いつもの隣り合った席。
アルフォンス様は、革手袋に包まれた指先を、ときどき確かめるように見ていた。
今日も火は、昼のあいだに何度か揺れたらしかった。
私の手首の火の核も、午後に二度、灯りを乱した。
——揺らぐ火。
その正体は、まだ分からないままだった。
「アルフォンス様の火、また揺れてるんですね」
私が手首の核の乱れからそう言うと、アルフォンス様は革手袋の指先を一度見て、それから低く言った。
「お前の水に、混ぜてみるか」
「……え」
「お前の張る、その膜だ。俺の火を入れたら、どうなる」
思いがけない言葉だった。
アルフォンス様のほうから、自分の火を私の水に預けると言うとは思っていなかった。
火を分けてくれたあの夜から、アルフォンス様はまた一歩、こちらへ来ようとしていた。
「やって、みます」
私は、長机の上にそっと両手を浮かせた。
息を、ひとつ落とす。
体のいちばん深いところ——いつもは母様の眼鏡が薄く蓋をしている、その奥に、指先で触れるみたいに意識を沈めていく。そこには、いつも水があった。冷たくて、暗くて、私の脈と同じ拍でゆっくり満ちては引く夜の海みたいな水。
セリーヌさんに教わってから、私はこの水に、命じなくなった。
——おいで。
そう、呼ぶだけ。
すると、その水が応えた。
手のひらの皮膚の薄いところからにじむように外へ出て、空気に触れたところで、息よりも薄い膜になって広がっていく。
冷たい絹を、空気の中にそっと引き伸ばすような感触だった。
水の膜は、長机のまわりを囲んで、ゆっくり立ち上がっていった。
廊下の足音が、すうっと遠ざかった。
「いきます」
私が小さく言うと、アルフォンス様は革手袋を、片方ずつ外した。
現れた素手の指先には、もう火が灯っている。
蝋燭の炎とは、まるで違った。
アルフォンス様の火は、芯が橙で、縁にいくほど金にちかい色をしていた。揺れるたびに、空気が焦げるかすかな匂いと、低い唸りのような音を連れている。指先のすぐ上で、その火は、触れてもいないのに私の頬の熱を上げた。
その指先を、アルフォンス様は、私の水の膜の縁へ近づけた。
そうするために、アルフォンス様は長机に少し身を寄せた。隣り合った肩が、あと少しで触れそうな距離。素手の指先が、私の指のすぐ横に並んで、その火の熱が手の甲にじんと伝わってきた。
アルフォンス様の息が、私のほつれた亜麻色の髪を、かすかに揺らした。
——近い。
そう思った瞬間、火と水が、触れた。
——あ。
消える、と思った。
火は水に消され、水は火に乱される。そういうものだと、ずっと思っていた。
でも、違った。
アルフォンス様の火は水の膜に触れた瞬間、消えるかわりに、膜の中へ薄くほどけて溶けた。
橙の熱が、私の冷たい水の膜の内側を、内側からそっと支えるように回っていく。
水はその火を冷たく握りつぶさず、ただ受け止めて、火の熱のぶんだけ膜の張りを増した。
水の膜が、さっきまでよりも、ずっと安定した。
音が、より深く遠ざかる。
書架の谷間の薄暗がりの中で、長机のまわりだけが、温かい水の球のように切り離されていた。
膜のおもてを、私の水の青とアルフォンス様の火の橙が混じり合わないまま、二色の薄い光になって流れている。
——できた。
私とアルフォンス様の、合わせ技の結界だった。
「……すごい」
私は、思わず小さくこぼした。
膜の中の空気は、私の水のひんやりした静けさとアルフォンス様の火のほのかな温もりが、どちらも消し合わずに同じ場所に在った。
私ひとりの結界には、なかった温度。
アルフォンス様は、素手の指先を膜に触れさせたまま、ふっと息を吐いた。
「悪くないな」
それだけだった。でもその「悪くない」が、アルフォンス様にしては最上級の言葉だと、私はもう知っていた。
火と水。
二人で初めて、一緒に作れたものだった。
膜の中で、アルフォンス様の指先の火が、ふいに揺れる。
合わせ技がうまくいって、火も水も穏やかに噛み合っていた、そのすぐあとだった。
橙の火が何かに引かれるように芯から一度ぐらりと傾いて、膜の中の二色の光がその一瞬だけ乱れた。私の手首のブレスレットの火の核も、それに合わせてひとつ、ことりと揺れた。
「……またか」
アルフォンス様が、低くつぶやいた。
合わせ技で安定したはずの空間の中で、火だけが、その安定からこぼれ落ちるように乱れていた。
理由は、やはり分からなかった。
私は、いったん水の膜をたたんだ。
呼んだときと逆に、水は手のひらのほうへ静かに戻ってきて、皮膚の中へ吸い込まれるように消えていく。廊下の足音が、いつもの距離に戻ってきた。
火が揺れたことは、たしかに気がかりだった。
でも、それよりも前に、私の中には別の手応えが残っていた。
——もう一度、やってみたい。
火と水を合わせれば、私ひとりではできないものが作れる。
その手応えは、火の揺れの不安よりも、私の中で一段大きかった。
「明日も、やる」
帰り際、アルフォンス様のほうからそう言った。
問いかけではなかった。もう決めた、という低い声だった。
「……はい」
私は、その明日が、もう待ち遠しくなっていた。
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