第3話 夢の果てに・3
「ねぇ、純亡。どういうことなの? 流し台にふたり分のお皿があったけど……」
しまった……と純亡は思った。一緒に食べたケーキの乗っていたお皿を片付け忘れていた。
「もしかして、テスト期間なのに友達を家に上げたりはしてないわよね?」
母親は追求してくる。
「勉強……会を……」
純亡は声を絞り出すように言った。
「勉強会!?」
母親は大袈裟に驚いてみせた。
「余裕だこと! でもあなたは他人に構ってる暇なんてないんじゃないの? 今回も学年一位をとるのよ。学生時代はずっと学年一位を取り続けて、それから一流の大学に入る。あなたは将来、医者になるのよ。それはわかってるわよね」
そして母親は純亡に背を向ける。
部屋を出ていく時に呟いた。
「まったく、くだらない占いの道具ばっかり集めて」
純亡は拳を握りしめた。
両親が帰ってきてしばらくした後、純亡は洗面所で洗面器に水をすくって、それから部屋に戻ってきた。電気を消し、カーテンを閉める。それから水面を覗き込んだ。水面に映ったのは、純亡の姿ではなかった。髪の長い、魔女のような女のシルエットだった。両目の部分だけが赤く光り輝いている。
「シレーナ」
純亡は水面に呼びかけた。
「何かしら、可愛い人間さん」
泡沫のシレーナはそう言ってくすくすと笑った。
「とうとう、あなたも深海獣になる覚悟が決まったのかしら?」
「まだ……全て沈んでしまえなんて思ってはいないけど……」
と純亡は答える。
「でも……また夢を否定された。また友達を否定された。ねぇ、私の家って狂ってるの?」
「狂っているのは世界の方よ」
シレーナは言う。
「この家を生み出した、世界そのものが狂っているのよ」
*
翌日、みなもは渚と一緒に下校道を歩いていた。鼻歌で『碧海のレゾナンス』なんかを口ずさんだりしてみる。
「何その歌、聞いたことない歌なんだけど?」
「え? 嘘。流行ってるよ、海の中ではね」
「なんで航太くんもみなもちゃんも、最近は変なことばっかり言うかなぁ」
渚は首をひねった。
「というかみなもちゃん、今日はなんだか上機嫌だよね」
「うんうん、生徒会長とお近付きになる機会があってさ」
とみなもは言った。
「今日もまた、勉強を教えてもらえることになったんだ」
「へぇ、良かったじゃん。生徒会長なら、すっからかんのみなもちゃんの頭の中も、どうにかできるんじゃない?」
「うん、そうなんだよね。純亡ちゃんとのお勉強、楽しくってさ。なんだか私でも、純亡ちゃんの占いの通り、彼女と一緒に勉強を頑張ってれば、上手くいくような気がして……」
それからハッとして渚の顔を見る。
「って、すっからかんって何? すっからかんって!」
「だって事実じゃん。ほら、こうやってコンコンってみなもちゃんの頭を叩くと、何も入ってないみたいな音がするもん」
「もう、やめてよ!」
みなもは渚の手を振り払った。
「じゃあ、私は純亡ちゃんの家に行ってくるから!」
みなもは駆け出していた。
*
純亡は薄暗い自室にひとりで立ち尽くしていた。ない……。今日の朝、家を出る時まではあった占いの道具が、全部なくなっている。
背後に気配を感じた。純亡は前を向いたまま呟くように言った。
「お母さん、今日、病院は?」
「お父さんに任せてきちゃった。今日は家でやることがあったからね。はー、でもすっきりした。これで純亡も、変な占いなんかに惑わされずに、お勉強に集中できそうね」
「全部……捨てたの?」
「捨てたなんてやぁねぇ。資源の無駄じゃないの。全部、お庭の肥料になるように燃やしちゃったわ。ほら、お庭に灰の山、あったでしょ?」
確かに、あった。でもあれが私の大切な占い道具の成れの果てだったなんて……。
「あとは」
と母親は純亡に背を向けた。
「『お友達』を追い返すだけね。今日も来るんでしょ? 自分より頭の悪い人間と関わってたら、純亡だって馬鹿になっちゃうから」
純亡の耳の奥で血管がごうごうと音を立てて流れているのが聞こえる。
そしてそれからの純亡の行動は咄嗟的だった。純亡は振り返ると、一歩を踏み出した。そして母親の背中をおもいきり、押した。
「ああぁっ!」
それからドタドタという音が響いた。母親の身体は、階段の下に落ちていった。
純亡は自分の心臓の鼓動音を聞きながら、階段上からじっと一階を見下ろした。
母親は階段下に倒れていて動かない。気を失っているだけだろうか、それとも死んでしまったのだろうか。どっちでもいい。純亡は階段をおり、倒れている母親を乗り越えると洗面所へと向かった。洗面所のシンクに、水を貯め始める。間もなく、水面にシレーナの姿が浮かび上がった。
「今日はなんの用かしら?」
シレーナは言った。
「いいから」
と純亡は言う。
「いいから、早く私を深海獣に変えて。私……今なら戦える。今ならこの腐った世界を深海に沈めることができる!」
「ついに覚悟を決めたのね」
シレーナはくすくすと笑った。
「いいわ、その覚悟、受け取ってあげる」
そしてシレーナは右手を伸ばした。そのから、黒い真珠のような石が出現し、石は水面から飛び出して、純亡の胸に吸い込まれる。
「私は……」
と純亡は言った。
「この世界を……許さない」
*
みなもは純亡の家へと向かう途中で立ち止まった。無効の住宅街が、半透明のドームに覆われている。そしてそのドームの向こう側には、雨が降りしきっていた。
「あれって……」
とみなもは言う。
「アクア・ドームだよ!」
「そんな……! こんなタイミングに!」
しかもあっちは純亡の家の方だ。
「純亡ちゃんが危ない!」
みなもは駆け出していた。
アクア・ドームの向こう側はすでに水がかなり溜まってきているようだった。
「行かなきゃ、飛び込める?」
みなもはイルに尋ねる。
「問題ないよ。みなもちゃんの泳ぎならね」
「わかった!」
そしてみなもは助走をつけると、アクアドームに飛び込んだ。
制服姿のまま水没した住宅街を泳いでいく。




