第9話 証明とは、疑う形をした保護でございます
神殿書記室には、白百合香油の匂いがございます。
午前の光が窓格子を通り、長方形に床へ落ちておりました。石造りの室内は冷え、書類を積んだ棚の陰に昨日の祭の花弁が一枚、誰も片づけないまま残っております。
リラは、記録机の横に立っておりました。
孤児院の子どもらしく、机の縁が胸の位置になって、両手でそっと握っております。茶色の髪は短く切られ、片方だけ紐色の違う靴で、石床に静かに立っている。公爵令嬢と神官長と書記官が同じ部屋にいることを、なるべく気にしないようにしようと、小さな肩が努力しておりました。
「証言の記録を、保留にしてください」
アルベリク様が言われました。
扇子が、私の手の中で止まりました。開きかけて、止まりました。
「……保留、でございますか」
「はい」
アルベリク様の金色の瞳は、私ではなくリラの方を向いておられました。静かな目です。穏やかと言えば穏やかですが、その奥に何かを測るような冷静さがある。
「未成年者の証言には後見人の同意が必要です。孤児院長が同意すれば成立しますが——」
「マザー・オルガ様は、今、セレスティナ様を庇っておられます」
「そうです」
マルタ書記官が羽ペンを置き、帳面を閉じました。
私は扇子を膝の上に置きました。開かないまま。
意味は分かります。証言を今記録しても、院長が同意せず、リラが孤児院へ連れ戻される可能性がある。証言は守られないまま外へ出て、逆にこの子を追い詰める。
分かります。それは分かる。
けれど、リラは昨日の祭の間じゅう、言いたかった言葉を抱えていた。それをまた待てと言う。
「先に」
アルベリク様が言われました。
「証言より、先にすることがございます」
机の前へ歩まれて、リラと目の高さを合わせるために身を屈めました。白い祭服の裾が、床の石へわずかに触れます。
「リラ。今日から3日間、この神殿の書記室を使う許可を出します」
リラの顔が上がりました。
「お菓子は出ません。椅子は固い。ですが、神官長が許可した場所にいる間は、孤児院から誰も貴方を呼び戻せない」
「……セレスティナ様も、来られませんの?」
私が尋ねると、アルベリク様は振り返りました。
「神殿法第27条。審問に関わる証言者の安全確保のため、神官長は証言者を一時的に神殿保護下に置ける。証言を記録しなくとも、保護は別に成立します」
証言は保留でも、この子は守れる。
逆でした。
私は後退と思っていたのに、順序が逆でした。先に証言を記録するのではなく、先にリラを安全な場所へ置く。そうすれば、証言の記録に必要な院長の同意を、後から誰かに迫られずに、時間をかけて取れる。
気づいていたのは、当然のこと、私だけではございませんでしたわね。
◇
孤児院の薬棚は、がらんとしておりました。
礼拝堂の裏手、石造りの小部屋です。午後の光が窓の高い位置から差しておりましたが、上の段に空の薬瓶が3本、埃をかぶって並んでいます。下の段には包み紙だけがあって、中身はございません。
「薬は」
イザーク様が静かに聞きました。神官長でも書記官でもなく、イザーク様が先に口を開きました。袖口にインクのついた補助神官服の袖を抱え直しながら、声を低くして。
「先月、切れました」
マザー・オルガは扉のそばに立っておられました。六十代とお見受けする修道女で、白いエプロンはきれいでしたが、顔の皺の中に疲れが沁みております。
「セレスティナ様が……ご寄付を、薬代に回してくださると仰って」
「回っておりませんわね」
私は穏やかに言いました。静かに。
マザー・オルガが唇を噛まれました。「公爵令嬢様には——」と言いかけて、止まりました。
リラが、棚の角へそっと指先を伸ばしました。空の薬瓶の縁を触れるか触れないかで、視線を落としたまま。
「薬が来ないと、小さい子が」
声が、低くなりました。
「冬、また誰か、熱を出しますから」
礼拝堂の外から、まだ白百合祭の名残の音楽が遠く聞こえます。慈善の歌。神の祝福の歌。孤児を救う聖女候補の歌。
私は棚の一番下の段へ目を向けました。納品札を刺す小さな穴がある。日付と商会名と品名が記されるはずの場所が。
剥がされておりました。
「イザーク様」
「見ています」
イザーク様は棚の横に膝をつきました。白い補助神官服の膝が、孤児院の石床で汚れるのを気にせず。棚の奥へ細い指を差し入れて、何かの跡を確認しながら、かすかに指先が震えております。
「……公爵令嬢」
声が小さい。私を見ないで棚の奥を確認しながら、それでも言おうとしている。
「妹も、以前——」
その先は出てきませんでした。
マルタ書記官が羽ペンを走らせようとして、止めました。記録するかどうか迷っている。正式発言か、独り言か。
「イザーク様」
私は少し声を落としました。
「今は、続きでなくて構いません」
イザーク様の肩が、わずかに下がりました。
◇
白百合回廊には、夕刻前の光が斜めに差しておりました。影は長く伸びて、回廊の床に斜線を描いています。涼しい風が通り、白百合の花飾りが祭の名残のまま柱に結ばれておりました。
アルベリク様は、私の一歩前で立ち止まられました。白い祭服と紺青の肩布。指先には銀粉インクの跡が残っております。
「ハイゼンベルク様」
「はい」
「本日の証言保留について」
「承知しております」
承知していると、私は言いました。
けれど声が少し低くなったことに、私自身が気づいておりました。
「私は——」
アルベリク様が続けられました。左手の親指が、紺青の肩布の縁をなぞっております。言葉を選ぶ時の癖です。すでに1度、気づいてしまっておりました。
「貴女様を、疑っているのではなく——」
その時。
回廊の突き当たりの扉が、静かに開きました。
「告白でなければ、入室してよろしいでしょうか」
マルタ書記官が真顔で立っておりました。羽ペンを胸に抱いて、丸眼鏡の奥の目が、業務的に問うております。どちらかと言えば申し訳なさそうというより、職務上の確認をしている顔でございます。
「違います」
「違います」
アルベリク様と私が、同時に言いました。
「左様でございましたか。では記録は不要ですね」
「不要です」
「承知しました」
マルタ書記官が帳面を開いて奥へ進みました。
アルベリク様の耳が、紺青の肩布に隠れる直前だけ、少し赤かったかもしれません。確認できる角度ではなかったので、私には分かりません。
分からないまま、扇子を持ち直しました。
マルタ書記官が棚の向こうへ姿を消した後、アルベリク様が神殿法の小冊子を手に取られました。小冊子の厚みの中に、何かが挟まっております。薄く乾いた何かが、頁と頁の間から端だけのぞいていた。
花弁。
白百合の、押し花でした。
アルベリク様が、小冊子を閉じました。私が見たことに、気づいておられるはずです。
「……その小冊子の中身は、職務上の保管ですか」
問わずにいればよかったかもしれません。けれど問わずにいたら、私はずっと気になり続けます。
アルベリク様は、しばらく小冊子を手の中で持っておられました。答えを探しているのか、答えを隠す言葉を探しているのか、私にはどちらかが分かりません。
「……職務でなければ、持つことを許されません」
肯定でも否定でもない答えでした。
私は扇子を開きました。胸の奥が静かに騒ぐのを、隠すために。
◇
神殿の外廊下で、リラが私を待っておりました。
小さな布包みを胸に抱いて、石の段に腰を下ろしております。日暮れ前の光の中で、白百合祭の花飾りが風に揺れておりました。
リラは私を見て、立ち上がりました。
「あの」
「はい」
「雨の日だけ咲く白百合があるの」
夕風が、回廊の白百合を揺らしました。
私は一瞬、その言葉の意味をうまく飲み込めずにおりました。証言保留の手続き、薬棚の空の棚、イザーク様の止まった声、押し花の端。今日という日が一気に沈殿するような間がありました。
「……それは、誰に教えていただいたの?」
「マザーが、歌ってくれた。雨の日にだけ咲く白百合は、泣けない子の代わりに咲くんだって」
リラは袖口を握りました。袖の折り目に、白百合の花粉が残っております。淡い金色の粉。祭壇奥の花壇に触れた者だけが持ち帰る粉が、この子の袖にある。
泣けない子の、代わりに。
私は扇子を開いたまま、しばらくリラを見ておりました。
信じると言うことと、証明することは、違います。
信じるだけでは届かない場所まで、順序で手を伸ばすことを、私は今日覚えました。
この子の袖に残る金色の粉は、明日の証言よりもずっと先に、それを私に教えておりました。




