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「連載版」「命の番」ですって?大変ですわ、神殿に正式照会いたしましょう  作者: 夢見叶
第3章 娘を売る家門に、神託は要りません

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第17話 祈りの水と、眠らされる令嬢

 その水を飲むと、言いたいことが遠くなるのだと、エルネスタ様は唇だけで告げました。


 声にはなっておりません。けれど、寝台の白い覆いの上で引かれた肩と、銀の水差しから逃げるように動いた細い指が、何より正確に語っておりました。


 フォルケン侯爵家の花嫁支度部屋は、朝の薄い陽差しの中に白百合で埋められておりました。壁際には祝い布、窓辺には清めの香炉、寝台の脇には銀の水差し。水面は静かで澄んでいて、いかにも祈りに似た顔をしている。淡い栗色の髪をゆるく編まれた花嫁が白い寝衣のまま横たわり、唇だけが薄く乾いておりました。


「お嬢様、奇跡水でございます。お飲みになれば、明朝には楽になれますよ」


 侍女長ロザが柔らかく囁く。優しい声でした。水差しを持つ彼女の手だけが妙に丁寧で——娘の目を、見ておりません。


 エルネスタ様の睫毛が震えました。喉元へ細い指が走る。唇が薄く開く。


 い、や。


 音にならなかったその二文字を、私は見落としませんでした。


「少々、お待ちくださいませ」


 扇子を閉じ、私はロザと水差しの間に立ちました。


「神託婚の花嫁ご本人がお飲みになる水であれば、神殿照会記録に提供者と由来を残す必要がございます」


「そのような——お嬢様はただお体が悪いだけで」


「マルタ様」


 マルタ書記官が羽ペンを構えました。水差しの位置を、記録板の上から確認しました。寝台から22センチ、右側面。その数値だけが、白百合の香りに満ちた部屋でひとつだけ無駄のない正確さを持っておりました。


 エルネスタ様が私を見ておりました。怖いものを見る目でした。けれど、その目の端にかすかな期待のようなものが混じっていたのを、私は扇子越しに見ておりました。



 廊下は石の冷えをそのまま残しておりました。


 花嫁部屋の扉を出た先で、男が廊下の奥からこちらへ歩いてくるところでした。旅装の薬商人らしい体格。柔和な笑み、丸い目。けれど黒に近い紫の手袋の親指が——黒い粉で微かに汚れておりました。


「ロイス・カントと申します。フォルケン侯爵様のご依頼で、お嬢様の御回復のために参りました」


 彼は白百合香油に似た匂いをまとった薬瓶を掲げました。その仕草があまりにもなめらかで、何度も繰り返してきた動作だと分かります。


「これは奇跡でございます。神のご慈悲により、フォルケン令嬢のお熱を鎮め、御心を安らかにするための水。奇跡に署名など、野暮でございましょう」


 御心を安らかに。便利な言葉です。騒ぐ者を黙らせる時、人はしばしば安らぎという言葉を使う。


「奇跡と仰いましたね」


 問い返すと、ロイスの笑みがほんの少し固まりました。


「ええ、もちろんでございます」


「では、神殿に照会できますわ。神殿由来を記録いたします。提供者のお名前と、白百合神殿本殿との取引番号をお教え願えますか」


「それは……本殿との取引は、ございませんので」


「あら」


 扇子の先を、彼の薬瓶へ向けました。


「では、神殿由来ではないと。記録いたしますわね」


 マルタ様の羽ペンが動く音が、冷えた石床に響きました。イザーク様が神殿法小冊子を開きかけ、馬車酔いの名残で一度だけ顔を青くして、それでも頁を探す。


 ロイスが笑みを保ったまま、一礼して廊下の奥へ消えました。


「マルタ様」


「記録しました。神殿由来なし、と」


 私は扇子を収めました。「奇跡です」という言葉が今この廊下の空気の中に残っている。神殿由来ではないと認めながら、奇跡と名乗った。その矛盾を、マルタ様の羽ペンがきちんと紙へ押しつけていました。



 夕刻、礼拝堂倉庫の石扉が重く閉まりました。


 燃え残りの香の匂い。薄い燭台の光が石壁に揺れる。アルベリク様が押収した水差しの封を開けると——中に入っていたのは、ただの井戸水でした。白百合香油の気配も、眠り草の匂いも、何もない。


「入れ替えられたのですね」


 アルベリク様は水面をご覧になったまま答えました。黒に近い青灰色の髪に燭台の光が細く当たっている。金色の瞳が、水差しではなく、水差しが置かれていた台の位置を見ておりました。


「時刻を確認いたしましょう」


「押収時刻、午後3時。侍女の出入り記録の最後は午後2時47分。13分の空白がございます」


 マルタ様の声は静かでした。羽ペンの先を一度だけ整えて、記録板へ戻します。


 13分。入れ替えには十分な時間でした。ロイスだけではない——館の中に、もう一人いる。


「水差しの位置変化記録は残っております」


 マルタ様が記録板を示しました。


「本日午前7時の記録と昨夜21時の記録で、14センチの差がございます。毎夜、誰かが近づけていた」


 毎夜。


 私の指が、扇子の骨の上で止まりました。白くなるまで、押さえました。


 エルネスタ様は毎晩、水を怖がっていた。怖がりながら、眠らされていた。ロザは知っていたのです。だから14センチ、少しずつ遠ざけていた。


「ロザの証言を確保する必要がありますわ。水の搬入経路は、彼女しか知らない」


 声が出てから、それが独り言だと気づきました。アルベリク様が静かにこちらをご覧になりました。左手の親指が、肩布の縁をゆっくりとなぞります。


「手順を確認いたしましょう。押収記録、位置変化記録、13分の空白、本日のロイスの発言記録。照会の根拠は書けます」


「証拠としては弱うございます」


「弱い証拠は、強い証拠を呼びます」


 私は扇子を開きました。隠すためではなく、この場にある事実を並べるために。


 その時。扉の外でイザーク様の足音が急いで近づきました。扉が少しだけ開いて、青ざめた顔が覗きます。


「ヴィオレッタ様。エルネスタ様のお部屋に、今夜も水差しが届いております。夕刻、礼拝堂の方から運ばれたと——匂いを確認しましたら」


 イザーク様が言葉を探しました。小冊子の角を折りかけて、慌てて直す。


「白百合香油と、甘い草の匂いがいたします。昨日と、同じです」


 倉庫の中が静かになりました。


 水差しを押収した。中身は入れ替えられていた。だが今夜、また新しい水が届いた。礼拝堂から。昨日と同じ匂いをまとって、エルネスタ様の枕元へ。


 アルベリク様が、初めて眉の形をわずかに変えました。


「今夜も、置かれているのですね」


「……はい」


 私は扇子を閉じました。


 押収した水は証拠を失いました。けれど今夜の水は、まだあの部屋にある。

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