第1話 黒い百合を、ご存じですか
「ヴィオレッタ・ハイゼンベルク公爵令嬢。貴女との婚約は、ここに破棄させていただく」
王太子ジルベルト殿下のお声が、王宮・白薔薇の間によく響きました。
午後2時。お茶会の終わりかけ。
白い卓布の上に、湯気の残る紅茶と、誰も手をつけていない砂糖菓子。窓辺で、白百合の蕾が午後の光に透けて、僅かに揺れております。
殿下の右隣には、ミレーヌ・ヴァルター男爵令嬢。淡金色の巻き髪を頬に落とし、潤んだ薄青の瞳を伏せ、桃色のドレスの胸元に、一枚の羊皮紙を抱いておられました。
いかにも、神に選ばれたばかりの娘のようで。
ええ、本当に。
神に選ばれた方というのは、どうしてこうも、証拠を胸元に抱きしめたがるのでしょう。
「神殿の神託により、私とミレーヌ嬢は『命の番』であると判じられた。これは神の御意志だ。人の作り出した婚約契約より、はるかに重きものである」
誰かが、息を呑みました。
どなたかは存じません。私ではございませんもの。
扇子の陰から、居並ぶ高位貴族のお顔を、そっと見渡します。
驚いておられるのは、殿下のお側に近い方々。驚いておられないのは、殿下のお側に出仕しておられる方々。
お気づきでございましたのね。3か月もあれば、王宮の使用人ですら気づきますもの。
気づいていなかったのは、おそらく、殿下お一人ですわね。
私は、紅茶のカップに指を添え、唇に近づけました。
ベルガモットの香りが、薄菫色の手袋越しに、わずかに鼻先を通る。一口だけ含み、ソーサーに戻す磁器の音が、白薔薇の間に小さく落ちました。
「左様でございますか」
殿下の眉が、ほんの僅か、動かれました。整った金髪に午後の光が落ちて、碧の瞳に、一瞬の困惑が浮かぶ。
「……驚かないのか」
「驚いてはおりますわ」
膝の上で、扇子を一度、閉じます。それから、また、開く。
薄菫色の手袋越しに、骨の冷たさが、指の腹へ伝わりました。
「神託というものは、神殿本殿、白百合の祭壇前で、神官長様おひとりによってのみ下されるもの。それが本日この場で、いかにして殿下方のお手元にあるのかしら、と」
ミレーヌ嬢の指が、羊皮紙の端を強く握られた。
爪の生え際が、白くなる。
「写しは……ミレーヌ嬢の手元にある」
殿下のお声が、ほんの少しだけ、遅れて出ました。
「あら」
扇子を持ち上げて、口元を覆います。
「それは、大変なことですわ」
白薔薇の間に、小さなざわめきが起こりました。ご年配の貴族が、隣の方に何かを耳打ちなさる。何を仰ったかは存じません。けれど、その方の白いお髭が、ほんの少しだけ、揺れたのを覚えております。
「神託の原典は、神殿禁書庫に封印されますの」
扇子越しに、ミレーヌ嬢を見つめました。淡金の睫毛が、震えていらっしゃる。
「写しを臣下が私的にお持ちになることは、神殿法第34条において、神への冒涜と定められております。罰則は、貴族位の剥奪と、神殿への身柄引き渡し」
ミレーヌ嬢の頬から、赤みが、すうっと引いていきました。
「ヴィ、ヴィオレッタ様……これは、神官長様のご厚意で、特別に……」
甘く、震えるお声。追い詰められると早口になるのに、語尾だけ令嬢風に整えていらっしゃるのは、いっそお見事ですわ。
「アルベリク神官長様の、ご厚意」
扇子の陰で、ほんの少しだけ、笑みを置きました。
「それは、ますます、神殿に正式照会いたしませんといけませんわね」
膝の上の小さな鞄に、指を滑らせる。中には、白百合紋の封蝋が押された控えが、一通。
泣くのは、順序を終えてからにいたします。
封蝋済みの控えを取り出し、白い卓布の上にそっと置きました。白百合の紋が午後の光を受けて、銀色に縁取られる。
「実は私、本日の午前10時に、神殿へ正式照会を出しておりますの」
殿下の唇が、半開きのまま固まりました。
その時。
白薔薇の間の正面扉が、静かに開いた。
純白の祭服。銀の刺繍。神殿最高位を示す、紺青の肩布。
黒に近い青灰色の髪を神官結びに整え、静かな金色の瞳がこちらをひと撫で。
白百合神殿神官長――アルベリク・ヴァインガルトナー様が、午後の光のなかに立っておられました。
お背の高い方。長身を僅かに前傾なさり、片手で召喚状の筒を、もう片手で肩布の縁を、左の親指の腹で一度だけなぞられる。
あれは、お考えになるときの癖でいらっしゃるのね。
……いえ。気づいたのは、私ではないことに、いたしましょう。
神官長様の後ろには、黒い書記官服のご婦人がおひとり。髪をきつくまとめ、指先にインクの染み。手にした羽ペンが、すでに紙の上で、出番を待っております。
神官長様は、卓上の控えを一瞥なさって、それから殿下に向き直られました。
「ハイゼンベルク公爵令嬢が、神殿に正式照会の書状を送って参られたのは、本日の午前10時。私が王宮宛に召喚状を発しましたのは、午前11時。殿下の婚約破棄宣言は、午後2時」
ゆっくりと、殿下の前にお進みになる。純白の祭服の裾が、白い卓布と擦れて、衣擦れの音が一拍だけ落ちました。
「順序が、いささか、逆でございますな」
殿下の整ったお顔から、初めて血の気が引きました。頬骨のあたりだけが、紙のように白く浮かび上がる。ミレーヌ嬢の手の中で、羊皮紙が震えております。
「神殿は、ジルベルト・フォン・グレーフェンベルク王太子殿下、ならびにミレーヌ・ヴァルター男爵令嬢に対し、神託捏造罪の嫌疑にて、出頭を要請いたします」
書記官のご婦人――マルタ様、とお呼びすればよろしいのかしら――の羽ペンが、紙の上を走り始めました。羽の先が、銀粉インクで黒く濡れる。
その音だけが、白薔薇の間に、雨の最初の一滴のように落ちました。
神官長様は、ミレーヌ嬢の方へ、お顔を向けられた。低いお声を、いっそう低くなさる。
「ヴァルター嬢」
「は、はい……」
「お手元の写しを、こちらへ」
ミレーヌ嬢の指が、羊皮紙を握り潰しそうになる。白い襞のあいだに、淡い染みができました。
お汗かしら。涙かしら。
いずれにせよ、神殿の禁書庫には、相応しくない湿気でございますわ。
「殿下にお渡しした写しを、皆様にもご確認いただきましょう」
神官長様が、卓上に羊皮紙を広げられる。白い卓布の上に、もうひとつの白い紙。光の角度が変わると、紙の上に印影が浮かび上がりました。
「神殿の正式な神託には、必ず、神殿印が三重に押されております。中央に主神印、右上に白百合印、左下に書記官印」
扇子の先で、私はそっと、紙の右上を示しました。
示すまでもなく、皆様がもう、ご覧になっておられた。
そこには、白百合印が、ございません。
「殿下のお手元の写しには、白百合印がございませぬ」
殿下のお手が、神託の写しを、震えながら開いた。袖口の王家紋を、無意識に押さえていらっしゃる。
「これは、神殿が下した神託ではございませぬ。神託の文言を真似て、印を一つだけ欠いた、ただの羊皮紙でございます」
「ち、違うわ……!」
ミレーヌ嬢が、突然、悲鳴のような声を上げられました。
「わたくしは、本当に、神様の声を聞いたのよ……! 神様が、殿下とわたくしは命の番だと、そう……」
神官長様は、ほんの一瞬だけ、眉をひそめられた。
その「ほんの一瞬」を、私は見逃さなかった。
……いえ。見逃さなかったというより、気づいてしまった、と申し上げた方が、正しいのかもしれません。
神官長様のお声が、いっそう低く、祈祷文のように、淡々となる。
「ヴァルター嬢」
「は、はい」
「神の声を、お聞きになったと」
「は、はい! 確かに、聞きました! だから、わたくしは、殿下と――」
「神の声を聞かれたと公的に宣言なさった者は、神殿法第12条により、生涯、神殿に身を捧げる義務がございます。神は、お選びになった者を、人の世にお戻しにはなさいませぬゆえ」
ミレーヌ嬢の顔から、表情が消えました。
「……え?」
「ヴァルター嬢。今、この場で、神殿への入殿をお選びくださいますか。それとも、神の声をお聞きになっていなかったと、ご訂正くださいますか」
ミレーヌ嬢は、お答えになりませんでした。
桃色のリボンが、首元で震えております。お唇が何かを言いかけて、止まる。それが、3度、繰り返されました。
マルタ書記官が、羽ペンを構えたまま、神官長様を仰ぎ見ます。
「神官長様、ただいまの沈黙は、発言として扱いますか」
「3呼吸を超えました。記録を」
「承知いたしました」
羽ペンが、また走り始める。その音は、もう雨ではなく、軒先から落ちる雫の数を数える音に変わっておりました。
マルタ書記官の視線が、一瞬、神官長様の指先へ動いた気がいたします。
神官長様の親指が、肩布の縁をなぞる。書記官は、何も書かずに、羽ペンを紙から、僅かに浮かせられました。
あの所作の意味も、私はあとで、知ることになります。
◇
白薔薇の間の上座から、低いお声が落ちてまいりました。
「ジルベルト」
国王陛下――アードルフ・フォン・グレーフェンベルク陛下が、玉座の肘掛けを、強くお握りになっておられた。目の下の影が、いつもより、深く落ちている。
「は、はい、父上」
「お前は、神託の写しを、神殿に確認したか」
「い、いえ……ミレーヌが、神官長様から直接賜ったものだと……」
「神託の写しを臣下にお下しになることは、神殿法上、ありえぬ」
陛下のお声が、一語ずつ、遅くなってまいります。
「お前は、神殿法第34条を、知らなんだか」
「知らなかった、と申すべきでしょうか……教育課程で、必ず履修するはずのことではございますが」
その時。
卓の脇から、私の父――ハイゼンベルク公爵が、静かに歩み出ました。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、白い手袋の指先だけが、寸分の乱れもございません。
怒っていらっしゃる時、父は手袋の指先を整えます。
今、整えていらっしゃるということは――そういうことでございますわ。
「ジルベルト殿下」
父のお声は、低く短い。
「あなた様は、10年前、私の娘との婚約を結ばれた折、神殿法を含む王太子教育を、修了されておりましたな」
「は、はい……」
「修了試験における第34条の答案、私、写しを所持しております。お持ちいたしましょうか」
殿下のお顔から、完全に血の気が引きました。
「お父様」
私は、扇子を一度、閉じました。
「今は、銀貨単位ではなく、王家紋でお話しなさってくださいませ」
父の白い手袋の指先が、ほんの少しだけ、止まりました。
ええ、お父様。私は、損害額を計算なさるためだけに、ここにお呼びしたわけではございませんの。
父は、ご自身の口の端を、僅かに引かれた。
あれは、おそらく、笑みになり損ねた何か。私が娘でなければ、決して見られなかった顔でございました。
父は、陛下の方へ向き直られた。
「ハイゼンベルク家は、10年間、娘ヴィオレッタを、王太子妃となるべく育てて参りました。その10年の月日、その教育費、その家門の名誉――すべてを、殿下は、たった1人の男爵令嬢の偽神託のために、踏みにじられた」
「ち、違う、私は……」
「我が娘の3か月の沈黙、その代償は、王家の血脈で、お支払いいただきます」
陛下が、目をお閉じになりました。
長い、沈黙。窓の外で、馬の鼻息が、遠くに一度落ちる。誰も、何も、申されない。
やがて、陛下は、ゆっくりと目を開けられた。
「ジルベルト」
「父上」
「お前に、王位を継がせることはできぬ」
殿下の体が、よろめかれました。
「父上――! 父上、それは、あまりにも……」
「神殿法を知らず、偽神託を見抜けず、10年の婚約者を侮辱し、ハイゼンベルク家の名誉を傷つけた。これだけのことを為した者に、王位を授けることは、神も、民も、決してお許しにはなるまい」
殿下が、その場に膝をつかれた。王家紋の刺繍が、白薔薇の間の床板に擦れて、僅かに鈍い音を立てる。
「父上……父上、お願いでございます……ヴィオレッタ嬢に、もう一度――」
殿下が、私に向かって、手を伸ばされた。
白い手套の指先が、震えております。10年前、私の指に首飾りを結んでくださった、その同じ手。
私は、扇子を、ゆっくりと開きました。
骨と骨のあいだに、午後の光が落ちる。
あの夜、私の首にかけられた青い宝石は、3か月前に、もう海の底でございます。
「殿下」
「ヴィオレッタ……」
「気持ちは、もう、とっくに冷めてしまっておりますの」
扇子を、口元へ。
「死んでも、御免でございますわ」
白薔薇の間の空気が、一拍、止まりました。
誰かが、息を吸う。誰かが、目を伏せる。殿下の伸ばされた手が、宙で、行き場を失っておられる。
私は、その手を、見ませんでした。
◇
神殿の衛士に挟まれ、ミレーヌ嬢が、白薔薇の間から連れ出されようとしていた、その時。
桃色のリボンが、震える唇のあいだで、何かを零されました。
「違う……わたくしは、ただ……」
ミレーヌ嬢が、肩越しに振り返られる。淡金の巻き髪が、頬の血の気の引いた線を、ゆっくりと撫でた。
「黒い、百合の方に……」
その先は、声になりませんでした。
衛士が、ミレーヌ嬢の腕を引かれる。桃色のリボンが、廊下の方へ、ふらりと消えていく。
白薔薇の間が、また、静まり返りました。
マルタ書記官の羽ペンが、紙の上で一瞬だけ止まり、それから、何も書かずに、紙の端へ静かに置かれた。
あの方は、ただいまの一言を、記録に残されなかったのですわね。
……いえ。残されなかったのではなく、まだ、残し方を、決めかねていらっしゃる。
神官長様の金色の瞳が、わずかに伏せられました。
驚かれた、というお顔ではない。
以前から、その言葉をご存じでいらしたような、そんな目の伏せ方でいらっしゃる。
神官長様が、ゆっくりと私の方へ歩み寄られました。
長身を僅かに屈め、私の卓の脇で、足を止められる。召喚状の筒を、肩布の裾で、ふっと隠された。
その所作の意味は、よくよく見ねば、分かりません。
あれは――私の名が記された署名欄を、人目から外すための、所作でございました。
気づいたのは、おそらく、私と、マルタ書記官のお二人だけ。
「公爵令嬢」
お声が、いっそう低くなる。
神官として、ではない。誰かに聞かせるためでも、ない。
私だけに、向けられたお声。
「貴女様の照会は、確かに受理されております」
扇子の骨を握る、私の指先が、ほんの少し、白くなりました。
その指先を、神官長様は、ご覧になっておられた。
ご覧になりながら、何も、お言いになりませんでした。
ただ、目の奥で、何かが一拍だけ、静かに揺れた。
あの揺れの意味も、私はまだ、知らないことに、いたします。
窓辺の白百合に、一瞬だけ、神官長様の視線が逸れました。午後の光のなかで、蕾が、咲こうとしている。
3か月前、私が祈りを捧げた、あの日と、同じように。
「ミレーヌ嬢の供述は、これより神殿で記録いたします」
神官長様は、再び背を伸ばされ、書記官に向き直られた。
「ただし、ハイゼンベルク公爵令嬢」
「はい」
「この件、婚約破棄だけでは、終わりませぬ」
神官長様の口元には、笑みは、ございませんでした。
ただ、肩布の縁をなぞる親指の動きが、いつもより、ほんの少しだけ、早い。
「黒い百合という言葉を、貴女様も、お聞きになりましたな」
「ええ。耳に、致しました」
「それは――どなたかの名でございますか。それとも、何ぞの符牒で」
神官長様は、お答えになりませんでした。
お答えにならないということが、お答えでございました。
扇子を、ゆっくりと閉じる。
骨が、合わさる、小さな音。
午後の光のなかで、白百合の蕾は、まだ、開ききっておりません。
ハイゼンベルク家の名誉と、私の10年の誠実は、本日、神殿法によって守られました。
それは、間違いない。
けれど。
守られたはずの胸の、奥のほう。扇子の骨を握る指先が、まだ、白いまま。10年は、戻りませんもの。
神殿の衛士に連れていかれるミレーヌ嬢の、震えるリボン。膝をついたまま、立ち上がれない殿下の、王家紋の袖口。何も書かれぬまま静まり返った、マルタ書記官の銀粉インクの羽ペン。そして、窓辺で、まだ咲かない、白百合の蕾。
黒い、百合。
その言葉だけが、白薔薇の間の午後の光に、ぽつりと、落とされたまま。
神官長様は、もう一度、私の指先をご覧になりました。今度は、ほんの少しだけ、長く。
婚約破棄が終わった、と、思っておりましたのに。
どうやら私の正式照会は、本当の意味では、まだ、始まってもいないようでございます。




