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第4節 約束

「星が見たいです」

 ライブが終わり、次はどうしようかと再びその問題に行き当たって、そんな折に彼女がそんなことを言い出した。

 星なら教室の窓からでも見えるのだが、それではどうも彼女のお気には召さなかったらしい。見晴らしだとか雰囲気だとか、あれこれと出された条件を総括してみれば、結論として屋上が最適だという話になった。

 校舎の屋上。病院の屋上に入った時は、彼女によってかそれとも元からそうだったのか鍵は開け放たれたままだった。けれど学校はそうもいかないだろう。洗濯物を干すこともないのだから、そもそも屋上へと誰かが立ち入ることはない。

 だから流石に屋上に入るのは難しいのではないかと思ったのだが、実際にはそんなことはなかった。なにせ都合の良いことに屋上へと続く扉の鍵が壊れていたのだ。物は試しとノブを捻ってみれば、予想に反してすんなりと奥へ開くことが出来たのだった。

 こんなことがあって、今は屋上で二人、静かに星を眺めている。俺はちょうど腹の辺りの高さまである柵へともたれ掛かりながら空を見上げ、彼女は大胆にも地面に直接大の字になって転がっている。

「流れ星とか見えないですかね」

「流石に難しくないか? 流星群の時期でもないし、そうそう流れてはくれないだろ」

「もう、そうやって諦めてちゃダメですよ。奇跡みたいに思えることでも、起こってしまえば珍しさなんて関係ないんですから」

 拗ねたような彼女の声。しかしそうは言っても、今は流れ星どころか星自体がそこまで見える訳ではない。

 確かに高所で、開けていて、学校の明かりが消えているせいで辺りは暗いこの場所からは、空には街中で見上げるよりもそれなりに多くの星が散らばっている。それでも今夜は月が明るく、地上にしても少し此処から離れただけで町の明かりが煌々と夜を染め上げているのだから、他の光に掻き消されて彼方の光は届きにくい。

 夜空の星は幻想的だと思われがちだが、天然のプラネタリウムなんて現実にはこんなところだ。

「こんなので本当に良かったのか? 大したことは何も出来てないけど」

「分かってませんね。大した事じゃなくても、学校ですることに意味があるんです。場所とか雰囲気って、結構大切なんですよ」

「……ああ、成る程」

 そう言われれば、そうなのかもしれない。確かにこうして見上げる夜空も、変哲はなくとも此処が学校の屋上であるというだけで言葉にし難い特別感があるものだった。

 空に瞬く光点たち。ここで星座の名前でも挙げることができればらしいのだろうが、生憎と星にはあまり詳しくない。見て確実にそうと分かるのは一際眩い三角形くらいのもので、だから口は開かず黙ったままにただ遠い星々を眺め続ける。

 広大な空に圧倒されて、無数の光点に惹き込まれて、人工ならざる天然のそれらに時間も忘れて溶け込んでいく。

「こうして輝いている星も、もしかすると今はもう無くなってるかもしれないんですよね」

 そんな静穏たる空気の中、穏やかな声で彼女はそんな言葉を差し挟んだ。

「それでもこうして、残るものはあるんですね。いつかは無くなるかもしれなくても、証が残る。誰かが絶対に忘れないでいてくれる。…………私とは違って」

 何だろう。この時不思議と、予感がした。

 ここで踏み込めば、きっと後には引けなくなるという予感。ここで触れることになるのは彼女の核心であり、深層であり、きっと何か決定的なものに違いないと、そう直感が告げていた。

「違うって、何が」

 それを分かった上で、訊いた。

 今更引き返せないも何も無いと。既にこれだけ関わってしまったのだから、ならば最後まで関わり切っても良いじゃないかと。

 それに、ほんの少しだけ、彼女が訊いて欲しがっているような気もしたから。だから、訊いた。踏み込んだ。

 そして彼女は淋しげに小さく笑って、星へ向かって伸ばしていた手を下ろし、その手で何かを確かめるような手付きで胸の横あたりに広がっている髪を撫でた。

「私の病気、脱色症のこと、あなたはどれくらい知っていますか?」

「えっと、確か始めは体の色が抜けていくんだったよな。白く染まって、その後にはその白も消えていくみたいに薄れていって、それで……」

「消えてなくなる。はい、正解です」

 最後の部分だけは言い淀んだ俺に代わって彼女が自分で掬い上げて、誤解は無いと静かに笑む。そしてその上で、80点ですと採点を告げた。

「80点? 何か足りなかったのか?」

「はい。でも仕方ありません。こんなこと、ほとんど誰も知らないんですから」

 そんな前置きをしながら、寝転がっていた体を起こした。両膝を抱えるような体勢で地面に座る。その視線だけが、変わらず空の星々へと向けられていた。

「この病気は、ただ体が消えるだけじゃないんです。消えていくのは体だけじゃなくて存在そのもの。忘れられるんですよ、誰からも。いないも同然になるんじゃなくて、本当にいなかったことになるんです」

「忘れられるって、そんなの──」

「本当ですよ。他でもない私が言うんですから間違いありません」

 どうにか否定しようとした言葉は、けれど口に出す前に阻まれる。それが真実なんだと、今更どうあっても覆らない現実なんだと、彼女の確固とした口調が示していた。

「家族なんかと話していると、たまに会話が噛み合わないことがあるんです。私が昔のことを話したら、みんな何の事だって首を傾げました。始めは私が覚え違いをしてただけだと思いましたけど、それから段々、少し前の話でも同じことが起こるようになってきたんです。私だけは覚えていて、今度こそ覚え違えたなんてあり得ないのに、他の誰も覚えてない。

 それに、気付いたらお見舞いに来てくれる人も減ってたんです。前は決まって一週間に一度は会いに来てくれていた友達が、いつからかぱったり来なくなったんですよ。

 そんなことがあって、色々と考えてみて。それで、ああ、そういうことなんだって気付いたんです」

 それこそが本当の脱色症患者の最期だと、自分がこれから辿る末路なのだと、そう彼女は語った。

 それは、想像以上に悲惨なものだ。だって何も残らない。今までずっと積み重ねてきたものも、辿ってきた軌跡も、何もかもが根本から崩れ去る。

 たとえ消えるにしても意味が遺るのならまだ良いだろう。誰かが覚えていてくれるなら、泣いてくれるだけだとしても、どれだけ僅かであれど救いにはなる筈だ。

 なのに彼女の場合は、そんな当たり前の小さな希望すらも持てないのだ。そしてその辛さを、その苦しさを、誰と共有することも叶わない。全部を一人で抱え込んで、消えるまでずっと一人で堪え忍ぶしか道がない。

 そんな話を聞かされて。そんな事実を知らされて。それがあまりにも救いの無いものだったから。きっと、こんな風に考えたのは自然のことだ。少しの間であれ同じ時間を共有した間柄で、その時間を好ましく感じていたのだから、叶うならば彼女に苦しまないでいて欲しいと願うのは、当然のことではないだろうか。

「忘れない。俺は絶対に、お前のことは忘れない」

「無理ですよ。だって、今まで一人だって、そんなことが出来た人はいないんですよ。みんな私のことなんて忘れて、きっとあなただって、忘れていくんです」

「だったら!」

 つい、大きな声で叫んでしまった。ここまで感情的になるつもりなんてなかったのに、けれど、その言い方だけは癪に障った。

 さっきは自分で、奇跡だからと諦めてかかるのはダメだとか言っていたくせに。それが自分のことになるとこれなのか。こうやって始めから諦めて、裏切られるのが怖いから期待もしない。

 きっと、その考え方自体が嫌だったのではないのだと思う。自分でもはっきりそうだとは言い切れないが、多分、彼女がそうやって悲観的になっているのが気にくわないのだ。

 他でもない彼女が。誰よりも悲痛でありながら決してそれを感じさせなかった彼女が。辛いからこそ楽しもうとする、苦しいからこそ笑おうとする、そんな健気な在り方にこそ、惹かれ始めていたというのに。

「だったら、また会いに行く。今度はお見舞いでも持って、普通に面会で会いに行く。約束する」

「……やく、そく?」

「ああ、約束だ。次は面会でお見舞いを持っていく。その次も……そうだ、その次は屋上で待ち合わせよう。今日の昼みたいに、また屋上で会うんだ。そこでまた次の約束をする。その次も、その次だって、また約束する。そうやって繰り返していけば、いつまでだって忘れないでいられる筈だ」

 たとえ、本当に彼女のことを忘れてしまうのだとしても。本当に彼女との時間が消えてしまうのだとしても、それと同じだけ新しく積み重ねたならば、無くならない。

 何度も何度も彼女の記録を更新し続ければ、会う度に彼女との思い出を思い返し続ければ、消える前にそれまでの全てを新たに積み上げ続ければ、絶対に忘れないでいられる筈なんだと。

 そう、感情に任せて一息に言い切って。言いたいことは残らず全部吐き出して、これ以上に続ける言葉は無いから口を閉ざす。対する彼女も圧倒されたような顔で茫然としているだけで、故にこの場へ新たな言葉は流れない。

 静寂が空気を支配している。夜の空気はいっそ息苦しい程に凪いでいた。音を立てるものが無い故の無音に耳は痛み、微かな吐息の立てる音すらも躊躇わせるそれはまるで真空をも思わせる。

 あまりの重苦しさに堪えきれなくなって、彼女と合わせていた視線を切る。再び鉄柵へともたれ掛かり、自然、彼女へは背中を向ける形になった。

 そうして遠くを見詰めていれば、その時間の中に変化は乏しい。いくら星々が天球を廻ると言ってもほんの数分の内に動く距離など知れている。人々の往来も喧騒も、隔てられたこの場所までは届かない。

 そして変化のない時間は、時の流れの実感すらも剥奪する。流れているのか止まっているのか。進んでいるのか戻っているのか。停滞と流動の狭間を揺蕩う時の中で、不意に、動きがあった。

 背中にぽすんと軽い衝撃。縋るように服を掴む手と、寄り掛かってくる体と、押し付けられる額。それらの感触が、一度にして背中へと訪れる。

「っ、なに──」

「お願いします。少しだけ、少しの間だけ、こうしていさせてください」

 振り向こうとした動きは、しかし手に込められた力によって制される。

 その手は小刻みに揺れていた。声は震えて、喉に詰まりながら途切れ途切れになっている。

 それはまるで、ずっと塞き止めてきたものが、溜め込んで押し込んで押し殺してきたものが、溢れ出してしまいそうだとでも言うかのように。

「あなたはずるいです。私、本当に歌を歌って、聞いてもらえただけで満足だったんですよ。それだけで良かった筈なのに、今は足りない、足りなくなっちゃったんです。あなたのせいですよ」

 だから、と彼女は言う。

 求めないでいられたものを、欲しいと思わせてしまったのだから。その責任を、その罪を、彼女は問う。

 ギロチンの刃のように決定的で、絞首台の縄のように逃れようのない罰を、その願いを、震える声で口にした。

「お願いですから、私を、忘れないでいてください……」

 絞り出すようにその祈りを呟いて、そうして彼女は泣いた。声を上げて、堰を切ったように激しく、それでいて決して涙は見せないようにと顔を背中に強く押し付けて、小さな子供みたいに泣き続けた。

 それを俺は、黙ったままに聞いていた。声は掛けない。きっと、それは求められていないように感じたから。だから何も言わず、寄り掛かってくる彼女の体を倒してしまわないようにと重心を整えるだけで、後はずっと空を見詰めていた。

 変わらない空。月は眩しく星は少ない黒い空。見上げ続けた夜空には、結局最後まで、星が流れるなんて奇跡は起こらなかった。

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