第3節 叶わぬ夢
無事に校舎へ侵入を果たしたからと言って、夜の学校でできることなど限られている。体育館も各教室も施錠され、鍵を保管してある職員室も閉め切られているとなれば、結局廊下や中庭を回る程度しかできはしない──と、普通ならばそうだろう。
実際この学校でも教室は全て鍵がかけられて入れないのだが、そこは事前の準備でどうにかなるものだった。
話は簡単。要は鍵を開けたままにしておけば良いだけだ。
それでも普通の教室であれば教師が戸締まりの確認に回ってくるが、この学校の場合、部室であればほぼ確実に確認されることはない。
クラスなどの主要な教室が並んでいる棟から少し離れて、旧校舎の一部を流用した部室棟が建っている。距離としてはさほど隔てられている訳ではないのだが、毎日の確認にわざわざ回るのが手間だというのと、部室棟に置かれているのは大半が生徒の私物であることから、セキュリティはかなり疎かになっているらしい。
部室とはいえ十年くらい前には普通に教室として使用されていた校舎の一部だ。ロッカーや黒板は残っているし、活動に使う机や椅子も、並んでこそいないが置かれている。木造で若干古くさい印象は拭えないが、そこはむしろ味があると言えるだろう。
彼女は念願の学校に昂る気持ちを隠そうともせずに教室の中ではしゃぎ回っている。彼女がいつから入院しているのかは知らないが、学校に来るのも教室という空間に立ち入るのも、相当に久し振りだったに違いない。
彼女のそんな様子を眺めて、さて、と一息つく。
「それで。学校に来て何をしたかったんだ?」
黒板へとチョークで適当に文字を書き連ねている彼女へとそう訊いてみると、彼女はぱっと動きを止め、はてと首を傾げた後にそのままの頭でこちらを向いた。
「…………何しましょう?」
聞き返されても困るのだった。
学校という場所に求められるのは、教育と交流。細分化していけばもっと挙げられるだろうが大まかに言ってしまえばその程度だ。それが夜ともなればどちらの役割も果たせない。ひっそりと息を沈める学び舎は、それこそ怪談の舞台くらいにしかならないのではないだろうか。
「んー。ここって何か面白いものでもないんですか?」
そう言いながら彼女は勝手にロッカーの中を探り出す。
別にこれと言って面白味のあるものも無かったとは思うが、いつ何時誰が何を持ち込んでいるかは分からない。手頃なボードゲームでも発掘されてくれないかと、俺も彼女に並んで雑多に物の詰め込まれた箱を取り出して中身を漁ってみる。
「そっち、何かあったか?」
「いえ、何も。教科書ノートに、おもちゃはけん玉くらいですね。あなたの方は?」
「こっちもだな。漫画とか雑誌とか、そのくらいだ」
底まで掘り返してみてもやはり大したものは見付からない。諦めるか次のロッカーに取りかかるかと迷いながら、とりあえず箱をロッカーの中へと戻していると、ふと視界の隅に彼女が何かを取り出して固まったのが映り込んだ。
まさか、何か良からぬものでも隠されていたか。男子高校生が密かに持ち込みそうなあれやこれやを想像しながら恐々その手の中を覗き込めば、しかしそこに収まっていたのは一冊の、音楽の教科書だった。
何の変哲もない普通の教科書。こんな場所に押し込まれていただけあって折れ目は酷いが、大きな汚れや落書きがある訳でもない。気に留める程のこともない、何処にでもあるような教科書だ。
けれど彼女は、それを虚ろや憂いといったものを含んだ静やかな眼差しで見詰め、それから胸に抱くようにして立ち上がると、静かに窓の方へと歩いていった。
今夜は昼間と変わらず晴れている。雲の少ない空には間もなく完全に満ちようとしている月があり、冴え冴えとした光を地上へ向けて降り注いでいる。
それを茫洋と見詰めながら、ポツリと、まるで水滴の落ちるように彼女は呟いた。
「私、夢があったんですよ。将来の夢。何だか分かりますか?」
「……いや。何になりたかったんだ?」
頭の中で候補は絞りながらも、そのどれも口に出すことなく聞き返す。何となく、万が一にも間違った答えを返してはいけない、そんな気がしてしまったから。
そんな俺に、彼女は笑わないでくださいよと前置きしてから、窓の外を見たまま正解を示す。
「私、歌手になりたかったんです。テレビで見て、小さい頃から憧れてたんですよ」
「歌、好きだったのか」
「はい。歌うといつも、皆が笑ってくれたんです。どんな些細な時にでも、何でもない普通の一日でも、笑顔が生まれた。……今では考えられないことですが」
話している間、彼女はずっと遠くを眺めていた。ぼうっとしたまま、何にも焦点を合わせないで、此処ではない何処かを見つめている。
『夢があった』と、彼女は言った。過去形で、遠く過ぎ去ってしまったものとして、彼女は彼女の夢を語る。
諦めたのか、なんて言えなかった。口が裂けても言える訳がない。だって、その理由はあまりにも明白だったのだから。
白い肌。白い瞳。白い髪。
それらは昼に見ても夜に見ても変わりはしない。きっと昨日も一昨日も変化はなく、明日も明後日も同じなのだろう。ずっとずっとこのままで、失われたものは決して二度と戻らない。色も、日常も、家族の笑顔も、取り戻せないと彼女自身が一番に解ってしまっている。
彼女の髪は雪よりも白く穢れない。その濁りの無い純白が示すのは、されど清廉ではなく死期なのだ。
だから、手放すしかなかった。そうするしかないと長い時間の中で思い知った。擦りきれて、枯れ果てて、その果てに受け入れる以外の選択肢を持てなかった。
……なんて。結局こんなものは想像だ。直接彼女の口から聞いた訳ではない、只の推論で只の妄想。けれどそれ程、間違ってはいないとも思うのだ。
そうでもなければ、あんな声は出せないじゃないか。震えて、掠れそうになって、まるで泣いているようなのに芯の部分だけははっきりした、そんな声は。
そうでもなければ、きっと出せないに違いない。
「なあ。一曲、聞かせてくれないか」
気付けば、そんなことを口にしていた。振り向いた彼女が驚いたような、戸惑うような躊躇うような表情を浮かべている。
この場に相応しい言葉なんて、きっとどれだけ探したところでありはしない。共感も憐憫も、彼女自身が要らないと切り捨ててしまっているのだから口にすべきではない。慰めだとか哀れみだとか、そういうことを言ってしまえばきっと、それと同時にこの不思議と居心地の良い時間もまた終わってしまうのだと、直感ではなく実感として感じていた。
だから答えは。
正解なんて存在せず何を言っても間違いにしかならないこの問題への回答は、きっと馬鹿みたいに楽観的なものであるべきだ。
「良いん、ですか……?」
「良い。むしろ俺の方が頼んでるんだから」
溢れそうになる感情を必死に塞き止めているかのように、どこか歪に無感情な声で彼女は問う。それに対して意識的に力強く頷けば、恐る恐るといった動きで両手を胸へと添えながら身体を真っ直ぐ此方へ向けた。
「……分かりました。でも、久し振りなんですからどれだけ歌えるかは分かりませんよ」
そう前置きしてから、手に持っていた教科書を丸めてマイクに見立てて口元へ。瞳を閉じ、息を吸って深呼吸。次に息が吐き出された時、その舌は穏やかな音律を乗せていた。
奏でられたのは、しっとりとした曲調のバラードだった。高い音域とゆったりとしたテンポを巧みに歌い上げ、場を曲の雰囲気で包み込んでいく。暗い教室は歌詞に出てくる廃墟に思え、窓の外は荒廃した背景と化していく。
そこで織り成される物語は胸を衝く。物悲しく、けれど決してそれだけではない旋律は、透き通るような彼女の声で形を与えられることによってその中に詰め込まれたあらゆる想いを紐解いていく。
激情を。静謐を。万感を。彼女の歌声が紡いでいく。
やがて曲が終わった後にさえ、そこは教室には戻らなかった。此所は彼女のステージだ。一夜限りの、彼女の為だけに設えられた特別な舞台。
空から降り注ぐ月光はスポットライトで、白い髪も白い肌も、彼女にしか着こなせないステージ衣装のようだった。
「どう、でしたか?」
呼吸を整え瞼を開き、恐る恐るといった声音で彼女が訊く。
呼び掛けられて、やっと自我を取り戻した。むしろそれまで自失していたことにすら気付けていなかった。
だからきっと、そのせいだ。
つい、頭の中に浮かんだことを、そのまま口走ってしまったのは。
「綺麗、だった。歌声も、白い髪も。月明かりで光ってて──」
そこまで言って、慌てて口をつぐむ。どうやらまだ我を取り戻しきれていなかったようで、出てきた感想は歌へ向けたものとは幾らかズレた方向へと転げてしまっていた。
これは、違う。綺麗だと思ったのは本当でも、月明かりを浴びて歌う彼女が幻想的めいて見えたのは事実でも、それを今口に出してしまうのは違うじゃないか。
違う違うとだけが胸中を乱れるように飛び交って、頭の中が真っ白に埋め尽くされる。そんな俺を茫然と見詰めながら彼女はぽかんと立ち尽くし、それから五秒と経った後、堰を切ったかのように大声を上げて笑い出した。
「……別に、そんなに笑うことないんじゃないか」
「あははは、すみません。でもあなたって、案外ロマンチストなんですね」
「それ、意趣返しのつもりかよ」
「褒めてるんですよ」
そう言いながらも、彼女は思い出す度に腹を抱えておかしそうに声を上げた。目尻に滲む涙を拭いながら、嬉しそうに何度も何度も笑い続ける。その様子は、まるで諦めていた夢に与えられた一つきりの肯定を、ゆっくりゆっくりと噛み締めているかのようでもあった。
そうして一頻り笑ってから、彼女はふと。
「そうでした。あなたって、そういう人でしたね」
そう、窓の外を眺めて呟いた。
「? それ、どういう」
「何でもありません。それより、煽てた責任はしっかり取ってもらいますからね」
思わず問うた疑問は掻き消される。彼女は片足を軸にくるりとターンしてこちらを向いて、マイク代わりの教科書を勢いよく俺の鼻先に突き付けた。
「もう一曲、アンコールとして聞いてもらいます」
「アンコールって自分で言うのか?」
「細かいことは良いんですってば。とにかく聞いてください」
そんなやり取りを交わしてから、彼女は再び歌った。さっきのバラードとは違う明るい歌。未来を歌う歌詞とアップテンポな曲調は、聞いている側はもちろん彼女自身も楽しげだ。
くるくる回ってはジャンプして、軽やかで伸びやかな身振りはもはやダンスのように華々しく。浮かべた笑顔も、弾けるように輝かしかった。
それは、ひどく小規模なライブだった。演者は一人、観客も一人狭苦しい教室内で、演出もなければ音響もない。けれどそれでも、これは間違いなく、彼女が夢見たステージだったのだ。




