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第2節 病院からの脱出

 入院病棟の消灯時間が二十一時。そこから当直以外の職員が帰ってしまうまでに充分の時間を空けて、二十三時に俺は夜の病院へと侵入した。

 緑の明かりで非常口と示された扉を潜り、人気のない廊下を抜けて階段を上っていく。音を立てるものの無い耳の痛む程の静寂の中、いくら忍ぼうとも大きく響き存在を主張してくる足音に心臓が不整脈のような動悸を誘発される。

 消えてくれない足音と、周りにまで届いてしまうかのような心音。誰にも気付かれないようにと思えば思う程に神経を磨り減らすそれらに耐えながら、病棟の六階へと到達する。

 彼女の病室は、入院している友人に聞けば直ぐに分かった。脱色症などという非常に珍しく、外見的にも分かりやすい病気が噂にならない筈が無い。病室のある階は直ぐに分かったし、細かい病室までは分からなかったが、そもそも要注意の患者を扱う六階には今は彼女しか入院患者はいないらしい。

 いかに院内広しと云えども一つの階に存在する部屋の数など知れている。それほど長くはない廊下に並ぶ病室を一つ一つ確かめていけば、唯一名札の付けられた扉を見付けるまでにそう時間はかからなかった。

 ただし本当に問題なのはここからだった。何せ、此処が間違いなく彼女の病室だという確証が全く無いのだ。噂はあくまで噂であり、又聞き程に信憑性の薄いものもそうは無い。

 とは言え名前も知らない相手の病室を確かめる方法なんて、結局のところ直接尋ねる以外にありはせず。迷っていたところで始まらないと無理矢理に息を整え、せめて声は出さずにノックする。それに返った返事が昼間に聞いた彼女の声であったことに安堵して、それで漸く扉を開けて俺は部屋へと足を踏み入れる。

 そして、彼女の格好を見た。

「え、」

「もう、遅すぎじゃないですか。すっぽかされたかと思いましたよ」

 窓の外を眺めていた体勢から此方を振り返って静かに笑い、座っていたベッドから跳ねるように立ち上がる。

 そうした動きに合わせて、スカーフとスカートが微かに揺れる。赤と濃紺のそれらに白が基調の上着。彼女が纏っていたセーラー服は、日常的であるが故に儚げだった彼女の印象をより一層強めるものになっていた。

 てっきり屋上で出会った時と同じ病衣姿だと思い込んでいたせいで、驚きが一瞬意識の表層を支配した。誓って言うが一瞬だ。驚いたのは間違いなく、確かに見惚れもしたのは否定できないが、それでも次の瞬間には我に返ることはできていた。

 しかし彼女はそんな刹那程度の自失も目敏く見て取り、ぱちくりと目を瞬かせて不思議そうに小首を傾げる。

「どうかしましたか? 学校に行くなら、折角だし制服も着ておきたいなと思ったんですけど」

 どこか変ですか? と腕を広げながら自分の体を見下ろす。それからふと何かに気付いたような顔をして、悪戯っぽい笑みを浮かべながら距離を詰めて寄ってきた。

「あ。もしかして、見惚れてました? 良いんですよ、思ったのなら、可愛いとか言ってくれたって」

「っ。馬鹿なこと言ってないで、さっさと行くぞ」

 隠した感情を言い当てられて、熱が集まる頬を見られないように顔を逸らしながら外へと促す。それを知ってか知らないでか彼女はあははと声を上げながら、逆らうことなく付いてくる。

 やっぱり、いくらなんでも振り回されすぎではないかと思う。彼女の距離の詰め方は異様に近い。こちらが初対面と思って相対している間にも、彼女は積年の友人くらいに接してくる。

 この認識の差こそが振り回される要因であり。それと同時に、そんな彼女だからこそ接しやすくも感じているのだろう。

 彼女を先導して、病室までに通った道を反対向きに辿っていく。いくつかの病室が並ぶ廊下を渡り、ナースセンターの前に出て、周りを見回して誰にも見られていないことを確かめてから階段を目指す。

 その道程に、つい数分前ほどの不安は感じない。一度通った道だからか、それとも今は一人でないからか。きっとどちらもあるのだろうが、個人的には後者の比率が高い気がする。

 赤信号は皆で渡れば怖くない。それと似たような心情だ。一人でないからより危険に気付きやすい。一人でないから不安を共有して分散できる。一人でないから、責任が自分だけには降りかからない。二人分となって余計に響く足音も、自分だけではないという事実が心に安堵をもたらしてくれる。

 だからきっと、油断していた。張り詰めていなければならなかった神経が緩んでいて、だから気付くのが遅れてしまった。

 ちょうど階段を三階にまで降り立ったタイミングで。急に、唐突に、何の前触れもなく、彼女に襟首を掴んで引き倒された。

 突然のことに抵抗できず、引かれるままに重心が後ろへずれて足の裏が宙を向く。倒れる寸前にどうにか手すりを掴んで衝撃をいなしはしたが、響いた音の小ささに反して意外と強い鈍痛が背中と後頭部に襲い掛かった。

「っ。いきなり、なに──」

 唐突な乱暴に抗議すべく痛む後頭部を押さえながら口を開こうとすれば、その寸前に彼女に掌を押し当てて塞がれた。危うく呼吸まで止まりかけて、反射的にもがこうとしたところで口に指を当てて静かにとジェスチャーで示す彼女のひどく慌てた表情に、やっと何があったのかを理解した。

 同時に、遠くから足音。三階に伸びる廊下の奥から誰かがこちらへ向かってくるようだった。

 俺は階段に寝そべる体勢のまま、彼女はその横で階段へと腰掛けて。二人揃って息を殺して、あまり動けないながらも可能な限り壁の陰へと身を寄せる。

 そうしている内に懐中電灯の光に続いて、宿直だろうか、一人の看護師の姿が見えてきた。その看護師の顔を見て、彼女が苦虫を噛み潰したような顔をする。

「……あちゃぁ、今日は斎藤さんかぁ。下野さんだったら良かったのに」

「……マズイのか? その、斎藤さんだと」

 掠れる程の小声で囁く彼女に、同じく小声で聞き返す。ここまでそれなりに余裕な態度を取っていた彼女にこんな様子を見せられては、不安も増そうというものだった。

「……斎藤さんは厳しいんですよ。もし次に見付かったら今度は部屋に鍵でも掛けられかねませんし、多分あなたは出禁でしょうね」

「……それはまた厄介だな」

 想像以上の堅物だった斎藤さんに、壁についていた手からぶわりと汗が吹き出してくる。幾らか鎮まってくれていた心拍が再び早鐘を奏で始める。

 迫る光。荒い呼吸。迫る足音。五月蝿い心音。

 一生分の緊張を詰め込んだようにすら思える数十秒の後に、光と足音は階段に潜む俺たちには気付くことなく三階にある別の廊下へと向かっていく。それを目で充分に確認してから、俺と彼女は示し合わせることなく同時に立ち上がっては静かに急いで一つ下の階まで飛ぶように階段を駆け降りた。

 二階の踊り場へと辿り着いて、誰も追いかけてはこないのを確かめて、やっと詰まっていた息を吐き出した。動悸と疲労感は半端ではないが、どうやら当座の危機は脱したらしい。

 落ち着いたところで、階段にぶつけた箇所の痛みが甦ってくる。

「ってて……。見付からなかったのは良かったけど、もうちょっと他にやりよう無かったのか?」

「しょうがないじゃないですか。あんなに無警戒に出ていこうとされたら、誰だって焦ります」

「う……」

 それを言われると言い返せない。確かにあの時は気が抜けていて、もっと用心すべきだったと自分でも思う。

 ただ、言い訳になってしまうが、無理もなかったとも思うのだ。あの時点ではまだ距離も離れていたし、懐中電灯の光も見えなかった。むしろあそこで気付けた彼女の方が凄いと言える。

「にしても、お前こそよく気付けたな。俺はさっぱり分からなかったのに」

「ふふん、勘と注意力の賜物ですかね。ああいうのって、だんだん分かるようになってくるものなんですよ」

 自慢気に語る彼女にそういうものかと返そうとして、ふと止まる。

 何か違和感、言葉の綾めいたものを感じて、それが何かと記憶を辿る。そうしてすぐに思い至ったのはたった今の彼女の言葉と、さっき隠れていた時の会話の中。

「なあ、その言い方だと分かるようになるくらい経験を積んできたって風にも聞こえるんだけど。さっき『今度は』なんて言ってたし」

 たしか、『次に見付かったら』とも言っていた。次だとか今度だとか、まるで前があったかのような口振りだ。

 何となく嫌な予感がしながらもそれを指摘すれば、彼女は直ぐには意図を掴みかねたのか一瞬呆け。

「あっ」

 しまったとばかりに今さら口を押さえる彼女に、俺は頬が引きつりそうになるのを必死に堪えながら問い詰めた。

「まさか、前にも抜け出したことあったのか?」

 ほとんど確信を抱きながら訝しむ俺の問いに、彼女はそっぽを向きながら白々しくも答えてみせる。

「さあ、何のことでしょう。少なくとも見ず知らずの病人を連れ出すようなお人好し、私はあなたしか知りませんよ」

「……そう言われると、全く良い人には聞こえないけど」

 むしろこれでは悪い人だ。それも警察沙汰の、お縄にかかりそうな類の。

 ふとすれば忘れてしまいそうになるが、これでも彼女は病院からすれば最も注意すべき患者の一人なのだ。治療は不能、余命は不明、回復の見込みは絶望的。何より『消えていく』という最期では、死んでも遺体が残らない。万一見回りの看護師が病室を覗こうものなら、もぬけの殻ではどれだけ大事になってしまうか想像するだけでも恐ろしい。

 こうして改めて考えてみれば、今していることは相当にマズイ内容だ。もし誰かに気付かれてしまったらと囁きかけてくる悪い想像に背筋を冷たい汗が流れていって。一方で当の本人が暢気に鼻歌なんて口ずさんでいるのを見ていると、どんな感情も行き場を失い溜息くらいしか出てこないのだった。

「お前、病人のくせして随分アクティブなんだな」

「病人でも体は普通に動きますからね。四六時中ベッドの上なんて退屈なだけですよ」

 少しだけトゲを込めて言葉を発するも、彼女は悪びれもせずに返してくる。

 そうこうしている内に非常口へと辿り着いた。何はともあれここまで来れば一安心だと扉を開ければ、吹きつける嫌に冷たい夜風が思っていた以上に冷や汗をかいていたという事実を教えてくれる。隣では彼女が「自由だー」と小声で呟き小さくガッツポーズを決めていた。

 夜の町。昼間と何も変わらない、けれど明らかに異質な夜独特の空気感に包まれた町を歩く。

 異質と言えば、隣を歩く彼女もまたかなりの異質だ。こちらはもはや異常とさえ言ってしまっても差し支えない。

 日常に上から被さるようにして現れた異常。夜の風景にはそぐわない真白。合わない辻褄は、そもそも俺がこんなのと一緒にいることに端を発している。

 そんなことを考えて、何だか既に遠く感じる当たり前を懐かしく思いながら、どうして今こんなことになっているんだろうという疑問に今更ながら立ち返った。

「なあ、何で俺だったんだ?」

「何がですか?」

「お前を連れ出す役目。何でああやって探してたんだよ」

 単に外へ出たいだけなら、医者や看護師に頼んだ方が速いだろう。もしくは家族。病気の娘の頼みなら、ある程度の無茶でも親心でなんとかしてくれるものではないだろうか。

 そう思いながらの問いに、言葉の裏の意味にまで気付いたらしい彼女はああと納得したように頷いた。

「先生たちはダメですね。あの人たちは私が消える瞬間を見逃せませんから。知的好奇心の人も、純粋に消えたことにちゃんと気付けるようにしようって思ってる人もいますけど。どっちにしてもあんなに監視されたら堅苦しいです」

「なら家族は? 多少は落ち着いて過ごせるんじゃないか」

「家族はもっとダメですよ。お父さんもお母さんもずっと辛そうな顔ばかりしてますから。二人とも、私が楽しそうにすればするほど泣くんです」

 いずれ、そう遠くない内に、別れが来ると分かっているからこそ。それがどうしても避けられないと理解しているからこそ、辛いのだろう。

 家族というのは、他の誰にも増して身近な存在であり、同時にどうしようもないほどに隔てられた他人のことだ。彼らはきっと彼女の境遇には誰よりも親身に接し、悲しみ、励まし、救い出さんとあらゆる努力を惜しまなかったのだろう。

 しかし彼らが救いと信じるものと、彼女が望む日々には、決定的なズレがあった。悲哀や絶望の共有と、終わるからこそ今の内に自由を謳歌したいという願い。それらは互いに、取り返しのつかない程に違う方向を向いていた。

 故にそれは無償の家族愛が織り成す美談であり、彼女の為にと彼女の想いを鑑みない、どうしようもない喜劇なのだった。

「だから私を連れ出すのは、私を知らない人じゃないとダメだったんです。私を知らないで、その上でこの体を悲観的には見ない人。そんな人を探していたんですよ」

 あなたみたいな人を、と。彼女は笑って締め括った。

 確かに、そういうことならあの時の返答は合格だろう。『病気についてどう思うか』という問いに対して『綺麗だ』と答えるなんて、そんなの楽観どころじゃない笑い話だ。

 こんなことを口走る人間がそうそう他にもいるとは思えない。むしろいてたまるか。

 ならば、もしあの時俺が屋上に行かなければ、条件通りの人物に誰とも出会うことができなければ、彼女はどうするつもりだったのだろう、と。

 そこまで考えたところで、「ん?」と不意に浮かんだ疑問に首を傾げた。

「なら、何で屋上にいたんだ? あそこよりは中庭にでもいた方がよっぽど人は多かっただろ」

 屋上にはあまり人が来ないと、そう言っていたのは他でもない彼女なのだ。条件に合う誰かを探していたというなら、もっと人の多い場所の方が見付かる可能性も高いだろうに。

 少なくとも、滅多に人の寄り付かない場所で探す理由なんてないのではないかと、そう思っての疑問だったのだが。

「…………」

 答えは、しかし直ぐには返ってこなかった。奇妙な一拍の間を空けて彼女は黙り、その後に何事も無かったかのように感じさせる自然さで言葉を紡ぐ。

「ほら。屋上の方が、何だか運命の出逢いって感じがしませんか? そういうのって憧れるじゃないですか」

「運命って。お前、案外ロマンチストなんだな」

 運命の出逢いとか憧れとか。そういったものに基づいて行動するというのは彼女らしいようで、けれど同時にギャップめいたものも感じてしまう。つまりは未だ彼女について掴みきれていないということではあるのだが、そうした新しい一面を知れたことについ笑みが零れ出る。

「む、いま子供っぽいとか思いましたね。違いますよそれだけじゃないんですから」

 しかし彼女としてはこの反応は不本意だったらしく、不満げに眉根を寄せて指を立てながら詰め寄ってくる。

「あなたは気付いてなかったみたいですけど、あの屋上って基本的に立ち入り禁止なんですよ。ですから、そんなのも気にせず入ってくるような規則に囚われない人なら、お願いも聞いてくれやすいかなって思ったんです」

「そう言う割にはかなり強引だった気がするけど。あれじゃあどんな奴が相手でも変わらなかっただろ」

「良いじゃないですか。何だかんだ言いながら、こうしてちゃんと聞いてくれてるんですし。──あ、そろそろ見えてきましたよ」

 そう言って、角の向こうに見えた学校を目指して待ちきれないとばかりに駆け出した彼女に、思わず今日何度目かの溜息が口をついた。やっぱり振り回されすぎだと額を押さえる。ずっと予想の外側を回り続ける彼女の言動は、ついて行くだけで精一杯だ。

 ただ、何故だろう。それに対して感じているのは、決して悪いだけのものではないのだった。むしろ楽しいと、この状況に心地よいものを感じている。

「おーい、待てって。忍び込むなら裏門に回った方がいい」

 なるべく小声で呼び掛けながら彼女を追って駆けていく。口元に自然に浮かんでくる微笑は、手の甲で拭うようにして伸ばし、見付からない内に抑え込んだ。

 そうしてそんなやり取りをしながらも、脳裏を過るのは彼女と交わしたさっきの会話。屋上にいた理由を問うた時に差し挟まれた、謎の空白。一見は予想外の問い掛けに、即座に答えを用意できなかっただけのようにも見えたのだが。

 まるで、答えられない何かを隠したように。

 咄嗟に言い訳を考えようとしたが故に生まれた空隙だと、どうしても思えてならなかった。

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