第1節 真白の少女
過去作の投下になるため投稿はそう間を置かず順次行っていく予定です。
最後まで読み終わった時、もう一度始めから読み返したくなる、そんな作品を目指しました。
彼女と初めて出逢ったのは、病院の屋上だった。
よく晴れて、白く大きな雲が空に浮かぶ昼下がり。広いスペースにそれでも尚ところ狭しと並べて干されたシーツの向こう。屋上の端の鉄柵にもたれ掛かり、彼女は一人静かに景色を眺めて佇んでいた。
始めはそれが、人だとは思わなかった。白い雲を背景に、白いシーツの向こう側。ただ、風に飛ばされた病衣が柵に引っ掛かっているだけなのだと、本気でそんな勘違いをしていた。
けれど、違った。彼女は間違いなくそこにいた。まるで何かを探すように、まるで誰かを待っているように。黙したまま、身動ぎもせず、ずっと眼下の町並みを、人々の往来を眺めていた。
「どうしたんですか、こんなところで」
ふと、俺に気付いたらしい彼女が振り返り、そう声を掛けてきた。
「約束ですか。誰かと、待ち合わせでも?」
鈴の音の鳴るような声だった。高くて、静かで、はっきりとしているのに儚げで、取り零せば今にも消えてしまいそうな危うい声。
此方を向いた彼女の目と視線がかち合う。俺の姿を映す彼女の瞳に、思わず言葉を失くして見惚れてしまった。
まるで、雪みたいだ。それが彼女に対する感想だった。
何て月並みな表現だろうと後で思い返してもそう思う。何故なら、あまりにそのままだったからだ。視覚情報をそのまま言語に切り替えただけの、何の捻りもない比喩表現。白いと言えば雪。雪と言えば白。たったそれだけ。
つまるところ。彼女は白かったのだ。瞳は薄い灰白色、病衣から覗く肌色は大量の白を混ぜ合わせたかのような透明度でさながらアルビノを思わせる。
そして何より、核心的だったのは彼女の髪だ。屋上の強い風にたなびいては散る、腰まで届く細く柔らかな長い髪。それは正しく、雪白と呼ぶに相応しいものだった。
雪のように白い。雪よりもなお白い。彼女の髪は、混じりも濁りも一切合切存在しない、純粋な白色をしていたのだ。
**
脱色症と呼ばれる病がある。
近年になって初めて確認された奇病であり、原因は不明、現時点ではこれといった対策も講じることが出来ていない。あまりの事例の少なさにより判明している事実は指折り数える程度しかなく、感染することはないとされてはいるがその反面、一度発症すれば改善することなく緩やかに死に向かうと言われている。
治療法も未だ確立されてはおらず、回復した例が存在しないことから致死率は100%という冗談のような数字を叩き出している。
症状としてはその病名が示す通り、全身の色が抜けていくのだ。初期症状は肌から始まり、次に瞳、そして髪へと広がっていく。進行に従い徐々に体内の色素が失われていき、やがて身体中が真っ白に染まるまで止まらない。
だが、この病気が奇病、難病と言われる本当の理由はむしろここからだ。
脱色症の末期症状。死期が近付くと、その身体からは全身を侵した白色すらも消えてしまうという。色が消え、白という唯一残された世界との縁すらも断ち消えて、後には何一つとして残らない。
そう、消えるのだ。脱色症患者の最期とは、言葉通りの『消失』だ。
透けた肉体は目に見えない。声も聞こえず触れ合えず、其処に居るのか居ないのか、消えてしまった後はどうなるのかも解らない。
そもそも誰にもどんな機器にも観測されないその状態を生きていると定義することができるのかと。そうした議論の末に、どうにも手の施しようが無いその状態は『死』として扱われると、結論付けられたというよりは暗黙の了解としてそう決まった。
これが脱色症の概要。限られた事例のせいか詳しい情報はほとんど民間にまでは出回らず、調べても見付かるのは症状の概要程度で関連する写真の一枚すらも出てこない。
結果としてこの病は、医学化学生物学とあらゆる分野での研究が行われているという事実に反して、世間的な扱いとしては都市伝説のそれとすらなってしまっている。俺自身もその例に漏れず、存在は知っていても大した関心は抱いてはこなかった。
だから。
実際にこうして彼女を目の当たりにした時、言葉が出なくなった。頭の中はたった一つの事柄で支配されて、他の事を考えることができなかった。
その瞳に目を奪われた。たなびく髪に惹き付けられた。
俺はその時。美しいと、たったそれだけを感じていた。
**
「あの、どうかしたんですか?」
再びかけられた声に、引き込まれていた意識がふっと我に返る。それで漸く声をかけられていたことを思い出して、そんな気は無いながらも無視してしまっていた事実に少し焦る。
「ああ、えっと……。別に、用があったとかじゃないんだけど」
答えながらも必死に記憶を辿り、どうして此処に来たのかと考えてみても、結局これといった理由は無いのだった。
単に怪我で入院していた友人の見舞いに来て、それからふと無意識に足が向いたからやって来たという、ただそれだけ。用も無ければ理由も無い、正しく『何となく』としか言い様のない動機だった。
「もし邪魔したとかなら、ごめん。すぐ出ていくから──」
「あ、まって、待ってください!」
慌てて落ち着かない気持ちのままに踵を返して、立ち去ろうと足を踏み出す寸前に背中にそれを引き留める声がかけられた。
次いで、右手に柔らかな感触。一瞬遅れて手を掴まれたという事実に気付く。体温が低いのか、その感触はひんやりとした冷たさを宿していた。
「そういうつもりではなくて、ただ少し珍しいなと思っただけで! ここに人が来ることはあまりありませんでしたから」
「そ、そっか。悪い、早とちりだった」
咄嗟に並べ立てたとばかりの彼女の弁明と、それに対する諸々の出来事への狼狽まみれの拙い返答。歪ながらも言葉を交わし、そうしてそれきり互いに言葉が途切れてしまう。
止めてしまった足をもう一度動かすには空気はあまりに重く、掴んでくる両の手は振りほどくにはあまりにも弱々しい。どうしようもない気まずい雰囲気が場を呑み込み、背中をじりじりと焦がしていく。
近付いて初めて気付いたことだったが、彼女はそれなりに背が低い。多分150cmの前半程度。見下ろす位置にあるその顔は、その上で俯かれてしまっては前髪に隠れて表情がまったく窺えない。だから、この状況は彼女が望んだものなのか、はたまた彼女にとっても想定外だったのか、どちらなのかの判断が付けられない。それが分からないからこそ、余計にどうするべきかも見えなくなる。
「────あのっ」
沈黙の末。岩のような停滞を突き崩したのは、意を決したような彼女の声だった。
逃がさない為か掴まれたままの右の手は、未だに彼女の感触と冷たさに包まれている。尚も上がらない彼女の顔はやはりどのような感情が浮かんでいるのか分からない。ただ、声だけは決然とした意思を宿らせて、彼女はこう問いかけた。
「あなたは私のこと……私の、この病気のこと、どう思いますか?」
その問いには、果たしてどんな意味があったのだろう。
病気というのが、彼女の患う脱色症を言っているのは理解できる。致死率100%。発症すれば助からない。死へ向かう近道へと運命は舵を切り、一直線に敷かれたレールは逸れることも外れることも叶わない。
では、彼女はそれに対してどんな答えを望んでいるのか。憐憫か、共感か、それとも無関心か。重く受け止めて欲しいのか軽く流して欲しいのか。
考え始めてしまうと何が正解で、そもそも正解を求める必要があるのか、もっと言えば正解なんてものがあるのかも、分からなくなってくる。
ただ、そんな風に迷いはしているが少なくとも、冷たい感触と共に伝わってくる微かな震えには、冗談で返そうなんて気は起こらなかった。
だから結局正直に、思ったままを口にした。彼女を見ていて感じたことをそのままに。むしろその方が冗談めいているということには、後になってから気が付いたが。
「その、綺麗、だと思った。雪みたいで」
言ってから自分で、何を言っているのだろうと恥ずかしくなる。初対面の相手にこんなこと、変なヤツだと思われても仕方がない。
そうして熱を帯びる頬をどうにか彼女には見られないようにと逸らす俺の一方で、ばっと彼女は顔を上げた。
俺の言葉に驚いたように目を見開いて、次いでほっとしたように息を吐き、嬉しいのか悲しいのか、どちらとも取れない感情を一度に表情へと織り混ぜて。ころころと表情を変化させてから、最後には一際嬉しそうな表情で落ち着いた。
「やっぱり。あなたなら合格です」
そうして彼女は、弾むような口調でそう言った。
「……え? 待った、合格って何が」
「私のことを哀れまないでいてくれたことです。可哀想だとか辛そうだとかではなくて、もっと前向きに捉えてくれる人を探していたんです。そんな人に、私のお願いを叶えて欲しくて」
そうして漸く手を離し、くるりと踊るような動きで身を翻しては俺の真正面へと回り込んだ。さらりと流れる白い髪。動きに合わせてなびいたそれが、キラキラと太陽の光を反射する。
そして両手の指を後ろ手に絡めてほんの僅かに腰を折り、身長も相まって下から覗き込むような形になりながら、彼女はその願いを口にした。
「今夜、一晩だけ私をここから連れ出してください。消えてしまう前に行きたいところがあるんです」
「いや、だから待てって……連れ出すなんて言われても」
「学校に行きたいんですよ。どこの学校でも構わないんですが、学校という場所に行きたいんです」
こちらの動揺なんて気にも留めず、彼女は更に言葉を重ねる。その上で最後に少しだけ眉を寄せて、ダメですか? なんて。そんな風に言われたところで、即決で返答なんてできる筈もないのだった。
そもそもこんなの、話の内容を呑み込むだけでも直ぐにはいかない。連れ出すというのは、そのままの意味で取っても問題はないのか。それとも比喩か、言葉の綾か何かなのかと。そんな風に明後日の方向へと迷走して、返すべき言葉も見付けられないでいて。
その時だった。
「あ! やっぱりまたここにいた」
何の前触れもなく、扉が開く音と共にそんな声が投げ掛けられた。驚いて振り向くと、小走りで屋上へと入ってきたのはこの病院の看護師らしかった。
相当に焦っていたのか看護師は始め俺の存在には気付かないで、ふと目が合ったところでパチリと瞬き慌てて会釈で謝罪と挨拶を示してきた。
そんな看護師を見て、隣の彼女は目を閉じてそっとため息を吐き出した。
「あーあ、見つかっちゃいました」
彼女はそう呟くと、残念そうな声に反して何の未練も感じさせずにするりと俺の横を抜けて看護師の方へと歩いていく。その際に小さく俺にだけ聞こえる声で、
「約束、ですからね」
そんな言葉を残していった。
「もう、診察の時間にはちゃんと病室にいなさい。そうじゃなくとも、あんまり一人で出歩かないこと」
「あはは、ごめんなさーい」
そんな会話を交わしながら、彼女は看護師の後に着いて屋上から去っていく。こうして屋上には俺一人、勝手に結ばれた約束と共に残された。
現実味の無い時間が過ぎ去って、忘れていた風の音と太陽の熱が甦る。静かであれど騒がしい、何とも言えない不可思議な空気感から解き放たれて、只の陳腐な静けさだけが場を満たす。
今のは本当に、実際にあった出来事だったのだろうか。夢か幻。白昼夢だと他の誰かに言われていれば、きっと信じていたに違いない。
けれど掌に残る冷たさが、彼女が現実の存在だったのだと告げている。そんな右手をぼんやりと眺めながら、彼女の言葉を思い出した。
「約束、か」
今夜、彼女を連れ出すこと。
一方的な約束だ。こちらの返答など初めから気にもしていない、守る義理のない勝手な要求。このまま家に帰って忘れてしまえばそれで無かったことにもできるような、そんな程度の過ぎた出来事。
けれど。
あの時、そんな願いを口にした時に見せた明るい笑顔。きっと、あれが彼女の本当の表情なのだろう。
嬉しそうな顔。安堵したような笑み。ずっと誰にも明かせずに秘めていた祈りがやっと叶えられたかのような、憑き物の落ちた晴れやかな笑顔。
あんな顔をされては、どれだけ一方的で身勝手な口約束だろうと、とても反故になんてできやしない。
「うちの学校って、セキュリティとか厳しかったかな」
彼女の後を追うのではなく、準備をすべく屋上から立ち去る。学校と病院への侵入経路。まさかこんなことを考える日が来るとは思わなかったと苦笑して、とりあえず非常口の位置と案内図を確認した。
実際にあちこち歩き回って侵入ルートを模索しながら、頭の片隅ではその元凶たる彼女のことを考える。
最初に雪だと感じた連想は、どうやら彼女には相応しくはなかったらしい。本当の彼女はもっと強かで、周りを振り回すタイプの存在で。どちらかと言えばどんな場所にでも自生できる、そう、例えば白詰草なんてお似合いだ。




