第5節 勿忘草
あの後。
一頻り泣いた彼女は、泣き腫らした目で憑き物が落ちたように笑いながら、帰りましょうかと口にした。
それで、今宵の逢瀬は終わり。非日常は幕を閉じ、ありきたりな日常が舞い戻る。
ただしそれは、彼女のいる日常だ。彼女の存在は日常へ、ありきたりなものとして組み込まれる。何に変えてもそうなるようにしなければならない。そういう風に関わっていくのだと、決めたからには。
彼女を病室まで送り届けて、また今度と手を振った。また会いに行くと約束した。後はそれを、絶えず胸に留めておけばそれで良い。
差し当たっては、見舞いに何を持っていくかが悩みどころだ。流れと勢いに任せて言ってしまったことではあるが、自分で言った以上は用意しないなんて選択肢はあり得ない。
とは言え今まで、これだけ贈り物を真剣に悩んだ経験などないのだから、何が喜ばれるのかなんて分からなかった。
アクセサリーとか小物の類か。いや、そもそも病人への見舞いであることを思えば果物なんかが普通だろうか、と。悩めば悩むほど深みにはまる一方だ。あれ程啖呵を切ってしまったからにはそう日にちを空ける訳にもいかないのだが。
そう思いながらも暫く悩み、数十分も無為に時間を潰した辺りで、結局今すぐに思い付く必要もないだろうという結論に行き当たる。
無理に捻り出した案が良いものである筈もない。夜も更けて睡魔も働き始めたことだし、今はもう眠ってしまって懸案事項は明日の自分に任せようと、日課である観葉植物への水やりを済ませてから床につく。
電気を消して、目蓋を閉じ、微睡みに身体を委ねて。
そんな時にこそ、不思議とアイデアが閃くものだった。
思い出したのは窓際に置いてある観葉植物のプランター、そこに植えてある段菊の花のことだ。
段菊の花言葉は「忘れえぬ思い」。下から階層状に花を咲かせていく様子が、記憶の積み重ねのようだとこの花言葉が付いたらしい。
関わる度に彼女の印象はころころ変わる。始めは雪だと思った。脆く崩れて、今にも消えてしまいそうな儚い雪。次いで強かに野に咲く白詰草を連想し、けれど今はそのどちらとも違っている。
あの時、校舎の屋上で涙を見せずに泣いた彼女は。『私を忘れないで』と、そんな祈りを切に願った彼女は、まるで白い白い勿忘草だ。
ならば忘れないという内容も、記憶の積み重ねという由来も、正しく彼女への贈り物に相応しいのではないだろうか。
と、そこまで思い付いたところで、大きく欠伸が溢れ出た。今日は随分と遅くまで歩き回って疲れたらしい。目処も立ったことだし細かいことは明日に回して今はもう寝てしまおうと、意識を睡魔へ託して目を閉じる。
──そう言えば、どうして段菊なんて育て始めたんだったかと。
ふと浮かんだ疑問は眠気の前には意味を成さず、明確な形となって記憶に残る前に意識は微睡みの中へと沈んでいった。
**
他に誰もいない病室の中。脱色症の特異性と奇異性を考慮して与えられた個室のたった一つのベッドの上で、少女は今日一日の出来事を振り返りながら静かに笑みを浮かべていた。
病院を抜け出したこと。学校に行けたこと。思い切り歌えたこと。屋上で星を眺めたこと。そして何より一番に、彼と一緒にいられたこと。
鼓動が大きい。頬が熱い。雪白の頬はどれだけ感情が揺らごうとも色を変えたりしないけれど、もしそうでなければきっと今頃、赤く染まっていたに違いない。
「お見舞いかぁ。変わらないな、あの人も」
彼と交わした約束を思い出して、ぎゅうっと抱き締めていた枕を脇に置いた。
ベッドの端に座り、直ぐそこに備え付けられている机の上に置かれた花瓶へと目を向ける。中の見える透明なガラス製のそれには、紫に色付く花が一輪挿しで生けられている。
そんな花瓶が、三つ。どれも同じ花が挿してあるそれらの縁を確かめるように指でなぞり、それから机の引き出しへと手を伸ばす。
開いた引き出しの中には、押し花の栞にジェルキャンドル、生花を編んだ冠やらリースやら、レジンで固めた花をあしらうアクセサリーの数々に、ドライフラワーを瓶に詰めてオイルで保ったハーバリウムも。他にも色々、たくさんの品物で溢れている。
それらを慈しむように眺めて、一つ一つを指でなぞり、それぞれと関連する思い出を呼び起こしては笑ったり頬を押さえて恥ずかしげに首を振ったりを繰り返す。
それから最後に、それら全部を見渡して、ベッド目掛けてぱたりと仰向けに倒れこんだ。
見上げた天井は白。清潔感漂う純白は、清廉を誇張する無垢なそれは、あまりに美しすぎるが故に忌避感すらも抱かせる。
白とはそういう色だ。何色にでも染まることのできる一方で、それができなければ何にもなれない欠陥品に成り下がる。朱に交わろうと思えば排斥される。万緑の中の一紅が疎んじられるのと同じように、多彩な世界へ白しか持たない私は入っていけない。
だからこの感情は、本来抱いてはいけない筈のものなのだ。もうすぐ消える身の上で、排斥されるべき奇異に塗れた、いないも同然の白色が。今もこれからも変わらず生きる普通の誰かに、執着なんてしちゃいけなかったのに。
「また今度、かぁ」
別れの際に交わした挨拶を思い出す。『また今度』。断絶ではなく再会を願う約束の言葉。つまり別れて終わりではなくて、また次があるということだ。
忘れないでと願いを乞うた。
絶対に忘れないと言ってくれた。
結局、それだけのことがこの上なく嬉しかったのだ。そんな当たり前を許してくれたのが彼だけだったから。だから嬉しい。だからこんなにも胸が熱い。だからこうして、涙が溢れて止まらない。
上へ向かって手を伸ばす。届かない物へと縋るように。眩しすぎるものへと手を翳すように。遠くのものがどれだけ遠くにあるのかを、自分自身に思い知らせるかのように。
そうして少女は呟いた。何も望むべきではない彼女が、それでも捨てることの叶わなかったその望みを。
段菊の香りの満ちる部屋の中、唯一残された未来への期待を口にする。
「お見舞い。今度は何、持ってきてくれるのかな」
**
よく晴れて、白く大きな雲が空に浮かぶ昼下がり。広いスペースにそれでも尚ところ狭しと並べて干されたシーツの向こう。屋上の端の鉄柵にもたれ掛かり、彼女は一人静かに景色を眺めて佇んでいた。
ふと、俺に気付いたらしい彼女が振り返る。そうして真正面から相対した彼女に俺は、まるで雪みたいだと思ってしまった。
瞳は薄い灰白色、病衣から覗く肌色は大量の白を混ぜ合わせたかのような透明度でさながらアルビノを思わせる。そして何より、核心的だったのは彼女の髪だ。屋上の強い風にたなびいては散る、腰まで届く細く柔らかな長い髪。それは正しく、雪白と呼ぶに相応しいものだった。
俺の姿を捉えた瞬間、彼女は何故か、とても苦しそうに顔をしかめた。しかしそれも一瞬のこと、彼女は表情を努めて明るいものへと変えてから、口を開いた。
鈴の音の鳴るような声だった。高くて、静かで、はっきりとしているのに儚げで、取り零せば今にも消えてしまいそうな危うい声。それと同時に、やっぱりとても悲しげで、今にも泣き出してしまうんじゃないかと思わせる程に震えて噛み締めた声だった。
「どうしたんですか、こんなところで。約束ですか。誰かと、待ち合わせでも?」
こうして俺は、彼女と出逢った。
最後までお読み頂きありがとうございました!
この作品は数年前、初めて書いた一次創作の小説でした。オリジナルってどうやって考えるんだろうと悩みに悩んで、結果、自分の『好き』をこれでもかと詰め込んだ作品に仕上がりました。お陰で未だに自分の中でも一番好きな作品です。読んで下さった皆さんの中にも、何か少しでも感じるものが残れば幸いです。
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