第5話:長老の茶と、崩れ去る絶対の盾
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
長老の館へ向かう一行の足音が、夕暮れの村に響いていた。
しかし、館の重厚な扉を叩こうとしたその瞬間、内側からギィィ……と静かに扉が開いた。
「……随分と賑やかな足音じゃな。皆、揃ってそんなに急いでどこへ行くつもりか」
薄暗い奥から現れたのは、床に届くほどの真っ白な髭を蓄えた長老、オルバスだった。彼は手に持った杖をコツンと鳴らすと、一行の青ざめた顔を一人ずつ見渡し、穏やかに、しかし絶対に抗えない威厳をもって告げた。
「まずは奥へ入りなさい。お茶を淹れるから、ゆっくりと座るのじゃ」
「しかし長老様! 一刻を争う事態なのです!」
エルランが必死に食い下がろうとするが、オルバスはただ静かに、冷ややかに微笑んだ。
「茶も飲めぬほど焦っていては、森の真実を見誤るぞ」
その一喝は、どんな強力な魔法よりも重く、深く、パニックに陥りかけていた大人たちの足をその場に縫い留めた。
一行はオルバス長老に促されるまま、奥にある広々とした集会場へと足を踏み入れた。
「随分と血相を変えておるな。魂が浮き足立っておるぞ」
オルバスは円卓の上座にゆったりと腰を下ろすと、無駄のない滑らかな手つきで茶葉を選び始めた。
長老オルバスの淹れるお茶は、村でも特別な意味を持っている。来客の顔色や呼吸の浅さ、その日の気温や風の匂い、そして森が発する微かな気配……そのすべてを瞬時に汲み取り、最適に調合された「魔法の処方箋」なのだ。
「今日のお茶は、深く甘い香りで呼吸を整えさせる「月明かりの葉」を主役に据えた。それに、地に足をつけさせるための「古岩の苔」を少々ブレンドしておる。……さあ、まずは一口飲め。そのまま本題に入れば、お主らは半分も正確に話せないだろうから」
どれほど世界が破滅の危機に瀕していようと、まずは心尽くしのお茶を口にしなければ、本題に入ることは許されない。
セレンは早鐘のように打つ心臓を必死に抑え込み、両手で震えるカップを持ち上げた。
一口、口に含む。途端に、鼻の奥を抜ける静謐な甘い香りと、じんわりと胃の腑に落ちていく土の温もりが、張り詰めていたセレンの神経を強制的に解きほぐしていく。
「……すごく、落ち着く香りがします。足の裏が、地面にしっかりとくっついたみたいな……いえ、逃げることを許されないような、重たい味です」
オルバスは満足げに目を細め、白髭を撫でた。
「うむ。お前さんたちは今、ひどく恐ろしいものを見てきた顔をしておるからな。……さあエルラン、少しは落ち着いたか? 何があったのか、話すがよい」
張り詰めていた空気が、一気に弾けた。
エルランは一度きつく目を閉じ、それから全力の声で長老へ向かって語り始めた。セレンが訴え続けた「森の悲鳴」のこと。人間の機械が結界を越えて古木を薙ぎ倒していること。そして自分とミーナが実際に境界へ向かい、確かめてきたこと。
「……結界が効かぬ、か」
オルバスは静かに目を閉じた。長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がる。その瞳には、もはや疑いの色は微塵もない。
「そして、森の悲鳴を誰よりも早く聴き取ったセレンよ」
鋭くも静かな視線が、大人たちの間で小さくなっていたセレンへと向けられた。
「お主の耳には、その大地の渦を鎮め、この村を救済するための「儀式の術」が、すでに届いておるのではないか?」
有無を言わさぬ問いかけ。張り詰めた大人たちの視線が、一斉に九歳の少女へと突き刺さる。
セレンはビクッと小さな肩を揺らしたが、ぎゅっと両手を胸の前で握りしめ、まっすぐに長老を見据えた。
「……あの、長老様。森の黒い渦を消すためには、三つのことが必要です。ひとつめは、瑠璃色の角の大鹿の心臓を、森に奉納しないといけません。ふたつめは、渦の真ん中にある白銀の古木を、正しい手順で切り倒します。そして……特別な石の粉で、すごく大きな浄化の陣を描かなきゃいけません。そうしないと、渦は消えなくて、村がなくなってしまうって……森が泣いています……!」
最後は少し必死になってしまったが、セレンは長老の目から視線を逸らさず、しっかりと言い切った。
広間は、水を打ったような静寂に包まれた。
「……瑠璃色の大鹿に、白銀の古木。そして浄化の大陣じゃな」
オルバス長老の声は、深い森の湖のように落ち着き払っていた。彼は深く刻まれた皺の奥の瞳を伏せ、杖を一度だけ床にコツンと鳴らした。
「間違いない。わしが三百五十年の生涯で、過去に三度経験したことがある「大祓の儀式」の供物じゃ。……まだ九歳のこの子がすべて正しく聴き取ったというのか……」
オルバスは大きく息を吸い込み、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや疑いの色は微塵もない。長老自身が過去に命がけで執り行った過酷な儀式の手順を、まだ幼い少女が嘘や幻覚で正確に言い当てられるはずがない。それが何よりも強力な「本物の危機」の証明として、長老の心を完全に動かしたのだ。
その様子を見て、セレンはふうっと小さく息を吐き出した。信じてもらえた。私が聴いた声は、ちゃんと長老様に届いたんだ。
しかし次の瞬間、カイの鞄が目に入った。中には、カイが掟を破ってまで命がけで撮ってきた「硝子板」が入っている。大儀式のことばかりに必死で、一番見せなければならなかった「証拠」を出し忘れていた。
「長老様、あの、もう一つ……!」
しかし、セレンの細い声は、長老の重々しい声に完全に掻き消されてしまった。
「エルランよ。今夜、村の大人全員を集めて緊急集会を開く。お主たちには、すぐに村中の家を回り、集会への参加を呼びかけてきてもらいたい。……そして子供たちは、今日は家に帰ってゆっくりと休みなさい。これから始まるのは大人の仕事じゃ」
「長老様、証拠が……」
「下がるがよい」
大人たちの熱狂的な動きに巻き込まれ、セレンとカイは館の外へ出されてしまった。
(どうしよう……。結局、硝子板のこと、一言も言えなかった……)
セレンは隣を歩くカイを見上げた。カイもまた、鞄の紐を握りしめたまま、どこか不完全燃焼のような表情を浮かべている。
大人たちが「儀式」という魔族の常識の枠内で力強く動き出してしまった今、魔法を持たない人間たちの「機械」という異質な脅威が、果たしてその枠内に大人しく収まるものなのか。
セレンの胸の奥には、大人たちの頼もしい熱気とは裏腹に、冷たい不安のしこりが静かに、しかし確実に残っていた。
(硝子板は……まだ、カイの鞄の中にある)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




