第21話 秘密の香りと、719号室の夜
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
女子寮へ続く石畳は、夕暮れの茜色から、夜の深い藍色へ少しずつ沈んでいった。 セレンの足取りは、羽が生えたみたいに軽かった。 どうして、と聞かれても、うまく言葉にはならない。ただ、胸の奥のずっと深いところが、ぽかぽかと温かいままなのだ。
「ただいまー……」 719号室の冷たい木の扉を開けた瞬間。 ぽんっ、と。 窓辺の鉢植えが、小さな音を立てた。ずっと硬く閉じていた蕾が、一輪だけ、ふわりと開いたのだ。
部屋の中が、しんと静まり返った。 「……おや?」 ベッドに寝転がっていたカヤが、むくりと起き上がった。机に向かっていたリリアも羽ペンを止める。部屋の隅で石を磨いていたメイまで、顔を上げた。 「セレン。なんでそんな顔してるんだ」 「え?」 「へ? じゃないわよ」 「むしろ今、顔から春風が吹いてる」 カヤがにやにやと笑いながら近づいてくる。セレンは「ひゃっ」と肩を震わせた。
「そ、そんなことないよ?」 「怪しい」 「怪しいわね」 「……なんか、甘い匂いする」 三方向から、獲物を狙うような視線が刺さる。 「えっ、ちょ、なに?」 「吐け」 カヤがセレンの両肩をがしっと掴んだ。 「だ、だから普通だってば! 図書館で、ちょっとお茶を飲んできただけで……!」 「ほーん? 誰と?」 「えっ」 「誰と?」 リリアが低い、逃げ場のない声で重ねる。 セレンの視線が一瞬、泳いだ。 「はい黒」 「黒ね」 「……黒」 「なんで!?」 観念して、もごもごと口を開いた。
「……カイ」 「男!?」 「男子!?」 「……青春」 「ち、違うってば! カイは村の幼馴染で! 三つ上で! ずっと会えてなくて、今日たまたま図書館の奥で——」 「図書館の、奥」 リリアがゆっくりと復唱した。 「人気のない場所で、運命の再会ねぇ」 「違うもん!」 「そのあと中庭でお茶だろ? 恋愛小説で見たやつじゃないか!」 「属性まで付いてるわ。年上幼馴染、古書趣味」 「属性ってなに!?」 カヤが腹を抱えて笑い転げ、リリアがわざとらしく胸の前で手を組んで天を仰ぐ。
「『誰にも理解されない私。でも、あの人だけは——』」 「そんなこと言ってないよぉ!」 「『二人だけの秘密を共有してるんです……』」 「してないもんー!」 半泣きで抗議するセレンの頭を、カヤがわしゃわしゃと乱暴に、けれど優しく撫で回す。 その時、メイがとことこと近づいてきた。両手には小さな水晶が握られている。 「メ、メイなら分かってくれるよね……?」 「……石が言ってる」 メイは真顔だった。 「セレンの心臓、さっきからすごく早くドクドクいってる」 「っ!?」 「……ふふっ、青春だね」 「メイまでぇぇぇっ!!」
ついに限界だった。セレンは自分のベッドへ飛び込み、枕に顔を深く突っ込んだ。 「ちがうもん! 絶対ちがうもんーっ!」 ばたばたと足を暴れさせる。 「はいはい」 リリアが呆れたように、けれどひどく楽しそうに笑う。 「で? その幼馴染さんのお茶は、どんな味だったの?」 「苦かった! でも、すごかったの!」 「もう惚気じゃないか!」 「のろけってなに!?」 「明日その先輩見に行こうぜ」 「……見たい」 「やめてよぉぉ!」
部屋の中は、明るい笑い声で満ちていた。 カヤの豪快な笑い声。リリアの意地悪そうな、けれど品のある笑い方。メイの小さなくすくす笑い。 セレンは枕に顔を埋めたまま、こっそり目を閉じた。 胸の奥が、じんわりと、痛いくらいに温かかった。
村にいた頃、誰にも自分の声を信じてもらえなくて、暗い部屋でひとり膝を抱えていた夜のことを思い出す。あの頃の自分は、こんなふうに誰かにからかわれて、笑い合える未来なんて、想像もできなかった。 からかわれて。騒がれて。でも、自分の話を聞いてくれる人が、ここにいる。それが、たまらなく嬉しい。
珈琲の、少し焦げたような香りを思い出す。雪解けの芽の丸い甘さとは全然違うのに、不思議と嫌じゃなかった。 窓辺では、さっき咲いたばかりの花が夜風に小さく揺れている。 その淡く甘い香りが、719号室の温かい夜の空気へ、静かに溶け込んでいった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




