第20話 二つの茶葉と、埃まみれの指定席
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
図書館の奥は、今日も深い静寂に沈んでいた。 新しい羊皮紙とインクの匂いがする中央区画を抜けて、誰も寄り付かない一番奥の棚へ。古書の乾いた匂いと、誰かがページをめくる微かな衣擦れの音だけが、澱んだ空気の中でゆっくりと漂っている。村の森の静けさとは違うけれど、セレンはこの埃っぽい場所が、少しだけ好きになっていた。
本を抱えて、いつもの棚へ向かいかけた時。 見覚えのある後ろ姿が、ふと目に入った。 癖のある黒い髪。少し猫背気味の座り方。そして、椅子の背もたれに無造作に引っかけられた、黒い革紐と古びた金属の箱——人間のカメラ。
セレンの心臓が、どくん、と大きく鳴った。 「——カイ!」 「静かにしてください!」 司書の鋭い声が飛んできて、周囲の学生たちの冷ややかな視線が一斉に刺さる。セレンは「ひゃうっ」と肩をすくめ、本で顔を隠した。
向かいの席で古い文献を読んでいた少年が顔を上げ、セレンの姿を認めて、ふっと吹き出した。 煤だらけで機械を弄っていた、村にいた頃とまったく同じ笑い方だった。 カイは人差し指を口元に当てて、外へ行こうと首を傾ける。 その何気ない仕草を見た瞬間。石と鉄の都市に来てから、ずっと胸の奥で張り詰めていた見えない糸が、ふわりとほどけていくのを感じた。
二人が向かったのは、中庭の隅にある小さなテラス席だった。 夕暮れ前の光が、花壇の植物たちを柔らかく照らしている。石畳の隙間から顔を出した土が、『ぽかぽか』『きょうはあったかいね』と、小さな声を上げていた。都市の石たちが上げる疲れた声とは違う、柔らかくて満ち足りた土の声だった。
「久しぶりだな、セレン」 カイが向かいの椅子に腰を下ろしながら、少しだけ照れくさそうに笑う。 「俺もずっと探してたんだけど、学年違うと全然会えないのな」 「私も! 中庭で見かけても、すぐ人の波に消えちゃうんだもん」 改めて見ると、カイは村にいた頃より少しだけ背が伸びていた。顎の線も大人びている。でも、首から下げたカメラだけは変わっていない。あの日、彼が掟を破って命がけで持ち帰ったもの。傷ひとつなく、丁寧に磨かれていた。
「お茶、飲もう」 「うん」 セレンは小さな布袋を取り出した。村を出る時、シオンが持たせてくれた『雪解けの芽』の茶葉。 手のひらをカップに添え、そっと目を閉じる。魔法陣は描かない。春の訪れを喜ぶ雪解け水の、あの丸くて優しい温度を思い浮かべ、水に触れる。 ふわり、と。甘い春の香りを乗せた湯気が立ち上がった。
一方のカイは、鞄から金属製の奇妙な器具を取り出して机に置いた。複雑な魔法陣を展開し、カチカチと音を立てながら内部に圧力をかけていく。 器具からゆっくりと落ちてきた液体を見て、セレンは目を丸くした。 赤黒い。焦がした琥珀みたいな、深い闇の色をしていた。
「はい、交換」 カイの提案で、カップを取り替えた。 カイが『雪解けの芽』を一口飲んで、ほう、と深く息を吐き出す。 「……あぁ、うまい」 懐かしそうに目を細めた。 「なんだか、村の森に帰ったみたいだ」 その言葉が、セレンにはひどく嬉しかった。
一方でセレンは、恐る恐る黒い飲み物へ口をつける。 「……にがっ」 「最初はな」 でも、ただ苦いだけではなかった。苦味の奥から、鋭くて華やかな香りが鼻に抜けていく。頭の中の靄が、一瞬で晴れ渡るような感覚。自然の持つ丸い優しさではなく、人間の技術が持つ鋭さと洗練が、そのまま熱い液体になったような味だった。
「これ、すごい……」 「人間の商人から仕入れた“コーヒー”って豆だよ。焙煎の方法と抽出圧力を、俺なりに色々試したんだ」 「カイらしい……」 二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
「そういえばカイ、なんであんな奥の棚にいたの?」 「あー……古い歴史資料を調べてるんだ」 「歴史?」 「魔族と人間の共生について」
セレンはぱちりと瞬きをした。 「昔は、今みたいに完全に別々じゃなかったらしいんだ。古い文献に、人間と魔族が一緒に畑を耕してた記録が残ってた」 「……!」 西の森が、ひき潰されていった日の記憶がふいに蘇る。鉄の機械が古木を薙ぎ倒す音。長老の、あの最期。 カイはカメラへそっと触れながら続けた。 「人間は、確かに森を壊した」 夕暮れの光が、カメラのレンズの縁で小さく反射する。 「でもさ。このカメラみたいに、世界をそのまま残せる道具も作ったんだ」 「……うん」 「俺はいつか、あの時の大人たちに見せてやりたいんだよ。人間を怖がることが、どれだけ俺たちを間違った方向に連れて行ったかを」
静かな声だった。でも、その奥には、あの日の森で見たのと同じ、確かな熱があった。 「もし昔、本当に共生できてたなら……もう一回、ちゃんと向き合えるかもしれないだろ」
セレンはしばらく、何も言えなかった。 それからふと、おかしくてたまらなくなって、笑いが込み上げてきた。 「……ふふっ」 「なんだよ」 「だって、私も最近、古い本ばかり読んで先生に怒られてるんだもん」 「は?」 セレンは教官室での大口論を話した。『夕暮れに舞う妖精の羽音』と答案に書いたこと。現代魔法派と古代魔法派の先生が怒鳴り合ったこと。最後は第三紀融合論まで飛び出してきて、自分だけが教官室から締め出されたこと。 話し終える頃には、カイが腹を抱えて笑っていた。
「あはははっ! 入学して数ヶ月で、教官戦争を起こしたのか!」 「笑い事じゃないってば!」 「いや、面白すぎるだろ!」
二人で声を出して笑い合う。それだけで、胸の奥に溜まっていた重たい石みたいなものが、少しずつ溶けて消えていくのが分かった。 「そっか」 カイが涙を拭いながら言う。 「俺たち二人とも、最先端の魔法学校にいるのに、誰も読まないホコリまみれの古い本ばっかり読んでるのか」 「……変だよね」 「かなり変」 でも、とカイは柔らかな声で続けた。 「俺は、嫌いじゃない」 「私も」
カイは手元にあるお茶のカップを軽く持ち上げた。 「これからも図書館の奥の席は、俺たち二人の指定席だな」 セレンも笑って、手の中の黒いコーヒーカップをそっとぶつける。 コツン、と小さな、でも確かな音が鳴った。 珈琲の鋭い香りと、雪解けの芽の柔らかな香りが、夕暮れの空気の中でゆっくりと混ざり合っていく。
セレンはカップを両手で包みながら、なんとなく思った。 自分もカイも、ここで見つけた答えを、いつかこの学校の外へ持ち出す日が来るのだと。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




