第19話 夕暮れに舞う妖精と、やかましい大人たち
図書館の奥の棚には、誰も読まない本が眠っていた。 背表紙が日焼けしているもの。表題が古い字体で書かれているもの。今の学校では使われない言葉が並んでいるもの。 セレンはそういう本が、なんとなく好きだった。村の森みたいな、古くて静かな匂いがするから。
ある夕方、一冊の魔導文献を開いた時。 ページの中ほどに、聞いたことのない名前があった。
『夕暮れに舞う妖精の羽音』
セレンはそこで、ぴたりと手が止まった。 すぐに、分かった。あの感覚だ。夕方に風が変わる直前、空気がふわっと揺れる瞬間。森の温度がすっと落ちて、光の質が変わる、あの感じ。あれには、こんな美しい名前があったのか。 吸い込まれるようにページをめくる。
『大地の胃袋が鳴る音』 『水脈の溜め息』 『石が眠りにつく刻』
現代の教科書で習う無機質な言葉とは全然違う。でも読むたびに、森の光景が目の前に広がってくる。シオンが教えてくれたことと、全く同じ形をしていた。 (こっちの言葉の方が、ずっとよく分かる)
その本を借りて、次の魔法理論の試験の解答欄に、セレンは『夕暮れに舞う妖精の羽音』という言葉を書いた。
数日後、担任に呼び出された。 教官室の扉を開けると、担任が答案を手にして待っていた。眼鏡の奥の目が、細く鋭くなっている。 「セレン。この解答は、どこで覚えた言葉ですか」 「図書館で……古い魔導文献に書いてありました」 「今の教本では使われていない表現です」 「分かります。でも、あの言葉の方が感覚と繋がるんです。今の言葉だと、どうしても音が遠くなってしまって……」
担任はしばらく答案を眺めてから、ひどく疲れたような深いため息をついた。 「感覚に頼ることの危うさを——」 「それはどうかな、先生」 突然、横から声が割り込んだ。 隣の机で書類を読んでいた初老の教官が、ゆっくりと顔を上げる。 「……また始めるんですか、あなたは」 担任の眉間に深い皺が寄った。
「始めるもなにも、事実だろう。あの古語は、今の数式で切り取る前の、世界そのものを言い表していた言葉だ。あれを“ガラクタ”などと言う方がどうかしてる」 「曖昧な感性論に学術的価値はありません」 「感性論? 世界を数式で切り刻んでから『自然と繋がっている』と言い張るのは、むしろ滑稽だと思いますがね」 「再現性のない技術は学問ではない!」 「効率だけで魔法を測るから浅くなるんだ!」
教官室の空気が、一瞬で沸騰したように変わった。 セレンは目をぱちぱちさせる。
「だいたい古語詠唱は実戦で長すぎる!」 「戦術だけが魔法の全てではないだろう!」 「現代術式は古代より魔力効率が——」 「その代わり世界との接続が薄い!」
止まらない。さらに奥の机から、別の教官まで顔を出した。 「お二人とも、また始まったんですか。第三紀融合論の観点から言えばですね——」 「黙っていたまえ!」 「あなたこそ現代構築理論を——」 「融合論は破綻している!」 「していません!!」
怒号が飛び交う教官室の隅で、セレンだけがぽつんと取り残された。 誰も、もうセレンを見ていない。 やがて担任が、頭を押さえたままセレンへ手を振った。 「……セレン。今日はもう帰りなさい」 「は、はい」 「早く!」
深くお辞儀をして、逃げるように扉を閉めた。 廊下へ出た瞬間、中からまた怒鳴り声が響いてくる。 「古語には古語の深さがある!」 「時代遅れですよ!」 「世界を数式で切り刻みすぎなんだ!」
セレンはしばらく扉の前に立っていた。 それから、こらえきれなくて小さく笑った。
村で長老たちが争う時は、もっと静かで、息が詰まるほど重かった。 でも、ここの大人たちの怒鳴り合い方は、なんだかひどく、人間臭い。悪意がなくて、真剣で、どこか子供っぽい。 怒っているのに、みんな本気で魔法が好きなのだと、痛いほど伝わってきた。
廊下の冷たい石壁に背中を預けながら、ふと思った。 あの先生たちは同じ「魔法」を見ているはずなのに、どうして全く違う言葉で話しているんだろう。 古い魔法と、新しい魔法。 感覚と、理論。
……それは、自分と学校の間にある見えない溝と、どこかよく似ていた。




