第10話:自然の代行者と、残酷な天秤
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
新長老の就任を祝う狂騒が遠くから聞こえる中、セレンは一人、村の外れへと向かっていた。
シオンの庭には、今日もいつもと変わらぬ穏やかな空気が流れていた。薬草の手入れをしながら、この男は村の中心の喧騒などまるで存在しないかのように、ただ淡々と作業を続けている。
「シオンさん……どうして、本当のことを言ってくれなかったの? シオンさんが次のリーダーだって、森の声がはっきり聴こえていたのに。どうして、あの嘘つきな大人たちをそのままにしておくの……?」
抑えきれない悔しさと、大人の理不尽に対する強烈な疑問。そのすべてをぶつけるように睨みつけるセレンに対し、シオンは怒ることも、視線を逸らすこともなかった。ただ、深く澄んだ、まるで底なしの泉のような瞳でセレンを真っ直ぐに見つめ返し、静かに口を開いた。
「セレンちゃん。私がもし、あの場で名乗り出て真実を明かし、村の長になっていたら……確かに、この村からこれ以上の犠牲者は出なかっただろうね」
シオンは土のついた手を払い、ゆっくりと立ち上がった。
「けれど、そうなれば、あの恐ろしい「人間の機械」による森の破壊は、そのまま続くことになった。彼らの侵略はいずれ止まるだろうが、それまでに気の遠くなるような時間がかかり、この偉大で美しい森の大半が、物理的に削り取られて失われてしまう。……森の意志は、私にその二つの未来を視せたんだ」
「え……?」
セレンは息を呑み、思わず一歩後ずさった。二つの未来?
「私が沈黙した場合の未来。……私が沈黙すれば、あの権力に目が眩んだ「強欲すぎる愚かな大人たち」が、いずれ自らの驕りと無知によって、大きな犠牲を払うことになる」
シオンの声は、春の風のようにひどく穏やかだった。
「だが、その代償として。彼らが愚行を犯し、己の命を散らして巨大な魔力を暴走させることで……人間たちによる森の破壊は、直ちに止まるだろう、と」
シオンの口から紡がれたのは、九歳の子供にはあまりにも冷酷で、残酷すぎる天秤の話だった。「強欲で愚かな村人たちの命」と「広大で偉大な森の命」。この温厚な魔法使いは、その二つを天秤にかけ、自らの意思でどちらを切り捨てるかを選んだというのだ。
「魔族は、この村にしかいないわけじゃない。世界には他にもたくさんの同胞がいるし、愚か者はどこにでも湧いてくる。……私はね、ちっぽけな一つの村の都合よりも、この偉大な大自然そのものを優先したんだよ」
村を守り、導くべき大人が。村を見捨て、森を選んだ。それも、オルバス長老が犠牲になることすら、あらかじめ理解した上で。
そのあまりにもスケールの違う恐ろしい事実に、セレンが全身を硬直させて立ち尽くしていると、シオンはふっと、悪戯を成功させた子供のように愛嬌のある微笑みを浮かべた。
「それにね、セレンちゃん。君だけに、内緒の話をしようか。……実は私、森の声を聴くことは、この村の誰よりも得意なんだ。絶対の自信を持っている君のその「耳」よりも、ずっとね」
「……えっ?」
「今回の大儀式。供物として必要だった、警戒心の強い「瑠璃色の角の大鹿」を無傷で狩ってその心臓を捧げたのも、あの巨大な「白銀の古木」を、一糸の乱れもなく切り倒したのも……本当は、熟練の魔法使いの集団なんかじゃない。全部、私が一人でやったんだよ」
セレンは限界まで目を見開いた。大儀式の準備中、遠目で見ていたあの凄まじい風の刃。大人たちが何人も集まって苦労して成し遂げたのだと思っていたあの神業は、すべて目の前にいる、この穏やかな人物がたった一人でやってのけたことだったというのだ。
「私は、森の声を深く聴くことや、ああいう神聖な大魔法を使うことに関しては、歴代の長老にすら誰にも負けない自信がある。ただ、お湯を素早く沸かしたり、重い物をふわりと持ち上げたりするような「日常で使う普通の魔法」は、他の人よりちょっと上手いくらいでね。だから、村の皆は私がそれほど凄い魔法使いだとは思っていないのさ。……その方が、色々と動きやすいからね」
能ある鷹は爪を隠す、などという生易しいものではなかった。シオンは、村の大人たちの底の浅い虚栄心や権力闘争の醜さをすべて完璧に見透かした上で、あえて彼らの下に入り込み、誰の目にもつかない暗がりから、森と村の運命を完全にコントロールしていたのである。
(……怖い)
セレンは震えを抑えきれず、自らの腕を抱きしめた。村の中心で絶対的な権力を振りかざし、嘘をついてまで威張っている大人たちが、今はひどく哀れで滑稽な、糸のついた操り人形のように思えた。
「……シオンさんは、森と、同じなんだね」
セレンがぽつりと呟くと、シオンは優しく目を細め、セレンの頭を撫でた。
その手はとても温かく、優しかった。けれどどこか人間離れした、途方もない静けさと深さを帯びていた。
遠くから聞こえていた新長老を祝う歓声は、いつの間にか止んでいた。代わりに、心地よい風が木々を揺らし、葉が擦れ合う音が静かな庭を満たしていく。
あの「鉄の牙」の悲鳴も、どす黒い魔力の淀みも、すべてが嘘だったかのように。偉大なる森はただ深く、穏やかな息づかいを完全に取り戻し始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




