第三章 決定通知
桜が散りかけていた。
四月の風が窓を揺らす音を、倉田は研究室の奥で聞いていた。外に出る気になれなかった。三月から、そうだった。
噂が噂でなくなってきていた。
業界の人間と会うたびに、話題がそこに流れた。TRONはどうなる。教育導入は本当に消えるのか。倉田は毎回「まだ決まっていない」と言った。嘘ではなかった。でも言うたびに、言葉が軽くなっていく気がした。
林が珍しく早退した日の夕方、電話が鳴った。
有村だった。
「倉田さん、今お時間ありますか」
「あります」
「直接伺いたいのですが、今夜は難しいので、電話で失礼します」
電話で、と言った。来て言える話ではない、ということだ。
「文部省と協議の結果」有村の声は、前に会ったときより低かった。「次年度の教育用コンピューターの標準規格について、TRONを対象から外す方向で調整が進んでいます。近日中に正式発表があります」
倉田は受話器を握ったまま、動かなかった。
「倉田さん」
「聞こえています」
「申し訳ありません」
その言葉が、一番こたえた。謝罪は、決定が覆らないことを意味していた。交渉の余地があるなら、官僚は謝らない。
「理由を聞かせてもらえますか。公式な理由を」
「貿易摩擦回避のための、総合的判断です」
「総合的判断」
「はい」
倉田は窓の外を見た。桜の木が見えた。花びらが風に流されている。誰も見ていない場所で、散っていく。
「有村さん」
「はい」
「あなたは正しいと思っていますか、この判断を」
長い沈黙があった。
霞が関の官僚が、こういう問いに答えることはない。分かっていて聞いた。
「私個人の考えを申し上げる立場にありません」
「そうですか」
「ただ」有村は続けた。声が、わずかに変わった。「TRONプロジェクト自体が終わるわけではありません。組み込みシステムへの応用など、他の分野での展開は続きます。倉田さんたちの技術は——」
「教育市場以外で生きる道を探せ、ということですか」
沈黙。
「そう受け取っていただいて構いません」
倉田は目を閉じた。
受話器の向こうで、有村が息を吸う音がした。何かを言おうとして、やめた音だった。
「失礼します」
電話が切れた。
研究室には倉田一人だった。林は早退した。他のメンバーも今日は出ていない。モニターが三台、無人の机の上で光っている。誰かが途中で止めたコードが、画面に映ったままだ。
倉田は立ち上がった。
コートを取って、外に出た。
エレベーターを待つのが嫌で、階段を降りた。五階分、足音だけが響いた。
外に出ると、風があった。
桜の花びらが一枚、倉田の肩に落ちた。払わなかった。
どこへ行くとも決めずに、歩いた。
夕暮れの街に、人が溢れていた。スーツの男たち、買い物帰りの女たち、走り回る子供たち。誰もBTRONのことを知らない。知らなくて当然だ。OSなんて、普通の人間には関係ない。コンピューターの電源を入れれば、何かが動く。それだけでいい。
でも倉田は思った。
その「何か」が何であるかは、誰かが決める。
市場が決める。政治が決める。外交が決める。技術者が何年かけて何を作ったかではなく、そういうものが決める。
交差点の信号が赤になった。
倉田は立ち止まって、向かいのビルを見た。一階にコンピューターショップがある。ショーウィンドウに、パソコンが並んでいる。画面にはアルファベットが流れている。英語のOS。アメリカの会社が作った、アメリカの思想で動く道具。
悪くはない。
悪くはないが——日本語で夢を見る道具ではない。
信号が青になった。
倉田は歩き出した。どこへ行くとも決めないまま、人の流れに混じって、歩いた。
花びらが、風に乗って流れていった。
次回 第四章 それでも、コードを書く




