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規格の墓碑銘 ―BTRONが葬られた日―  作者: 八雲 海


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第四章 それでも、コードを書く

翌朝、林は倉田より早く来ていた。


 珍しいことだった。林はいつも十時過ぎに来る。朝が弱いと自分で言っていた。それが八時前に、コーヒーを二つ用意して、倉田の机の前に座っていた。


 倉田を待っていたのだ。


 「知ってるか」倉田は椅子に座りながら言った。


 「昨日、有村さんから電話があったんですよね」


 「誰から聞いた」


 「有村さんの部下の人と、知り合いがいて」林はコーヒーを差し出した。「正式発表は来週だそうです」


 倉田はコーヒーを受け取った。


 「そうか」


 「怒ってますか」


 「怒っても意味がない」


 「じゃあ悲しいですか」


 倉田は少し考えた。怒り。悲しみ。どちらも正確ではない気がした。もっと静かで、もっと重たい何かが、胸の底に沈んでいる。


 「虚しい、に近い」


 林は頷いた。


 「俺もです」


 二人でコーヒーを飲んだ。研究室に他の人間はまだ来ていない。モニターが静かに光っている。外から、街の音が微かに聞こえる。


 「倉田さん」


 「なんだ」


 「俺、院を辞めてここに来たじゃないですか」


 「知ってる」


 「親に反対されて、それでも来た」林はコーヒーのカップを両手で包んだ。「BTRONが学校に入って、子供たちが使って、そこから日本のソフトウェアが変わる——そういう話を聞いて、これに賭けようと思ったんです」


 倉田は何も言わなかった。


 「賭けに負けましたね」


 「そうだな」


 「でも」林は顔を上げた。「後悔はしてないです。今のところは」


 今のところは、という言葉が正直だと思った。十年後、二十年後に何を思うかは分からない。でも今は、後悔していない。


 「なんでだ」倉田は聞いた。


 「本物のものを作ろうとしたから、じゃないですか。勝ち負けじゃなくて」


 林は少し照れたように視線を外した。


 「うまく言えないですけど」


 「いや」倉田は言った。「うまく言えてる」





 正式発表は、四月の終わりに出た。


 新聞の経済面に、小さな記事が載った。「教育用コンピューターの標準規格、TRONを除外」。見出しはそれだけだった。三年間のことが、一行になった。


 業界には波紋が広がったが、一般の人々には何も届かなかった。当然だった。コンピューターのOSが変わっても、街の風景は変わらない。桜は散り、電車は走り、子供たちは学校へ行く。


 倉田のもとに、何本か電話が来た。


 記者からの取材依頼。業界団体からの慰めの言葉。大学時代の友人からの「大丈夫か」という短いメッセージ。


 全部、同じように短く返した。


 プロジェクトは続く、と倉田は言い続けた。嘘ではなかった。TRONは組み込みシステムの分野で生き残る道がある。家電、自動車、工業機器——目に見えない場所で、TRONの思想は動き続ける。


 でもそれは、倉田が賭けたものではなかった。


 子供たちが最初に触れるコンピューターで、日本語が本当の意味で生きる——その夢が、消えた。





 五月の連休が明けた夜、倉田は一人で研究室に残っていた。


 林は帰った。他のメンバーも帰った。


 モニターの前に座って、倉田はコードを開いた。


 誰も頼んでいない作業だった。正式な業務でもない。ただ、やり残したことがあった。文字入力の処理に、もう少し手を入れたかった。教育導入が決まっていた頃から、ずっと気になっていた部分だ。


 子供が初めてキーボードを触ったとき、日本語がどう動くか。


 その感触を、もう少し丁寧に作りたかった。


 誰も使わないかもしれない。このコードが日の目を見ることは、もうないかもしれない。それでも、倉田の指は動いた。


 キーボードを叩く音が、静かな研究室に響いた。


 モニターの光の中で、コードが積み上がっていく。一行、また一行。誰かのための言葉が、画面の中に積み重なっていく。


 深夜になった。


 街の音が遠くなった。


 倉田は手を止めて、画面を見た。


 カーソルが点滅している。最初の夜と同じ速度で、同じリズムで。あの夜から何かが終わって、でも何かはまだここにある。


 保存して、ファイルを閉じた。


 コートを着て、電気を消した。


 暗くなった研究室で、モニターのスタンバイランプだけが、小さく光っていた。


 緑色の、小さな光。


 まるで息をしているようだった。


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