第二章 摩擦係数
ワシントンの九月は、東京より乾いていた。
ジェームズ・ホルトは国際貿易センタービルの七階から、ポトマック川を見ていた。川面が光っている。空が広い。東京にいたとき、空がこんなに広く見えたことはなかった。ビルとビルの隙間から、申し訳程度に空が見える街だった。
悪い街ではなかった。
四年間、日本に駐在した。言葉を覚えた。食べ物は好きになった。人々は礼儀正しく、街は清潔で、電車は時間通りに来た。嫌いになる理由がなかった。
だから仕事は、割り切ってやる必要があった。
「ホルト、レポート見たか」
声がして振り返ると、同僚のダン・リーヴィスがドアから顔を出していた。四十代、太り気味、いつもネクタイが緩んでいる。通商代表部に十五年いる古株だ。
「見た」
「TRONの件、上が本気だぞ。議会からも突き上げがある」
「知ってる」
ホルトは窓から離れて、自分の机に戻った。レポートが積んである。日本の文部省が発表したBTRON導入計画の資料、業界団体からの陳情書、シリコンバレーのロビイストからの分析レポート。
マイクロソフト。アップル。インテル。
彼らの懸念は明快だった。日本政府が特定のOSを教育市場で標準化すれば、アメリカ製品が入り込む余地がなくなる。子供の頃から別のOSに慣れた世代が育てば、将来の市場も失う。
「でもな」ホルトは言った。「BTRONは性能が高い。日本語処理に関しては、うちのどの製品より優れてる」
「だから危険なんだろ」
「そういう意味で言ったんじゃない」
リーヴィスは肩をすくめた。
「感情移入するなよ。お前、日本にいすぎた」
「感情移入じゃない。事実の話をしてる」
「事実」リーヴィスはドアに寄りかかった。「事実はこうだ。日本は八〇年代に自動車でやった。半導体でやった。次はソフトウェアをやろうとしてる。アメリカの産業が潰れてから後悔しても遅い。それが事実だ」
ホルトは答えなかった。
間違ってはいない。日本の製造業がアメリカ市場を席巻したのは事実だ。デトロイトが傷ついたのも事実だ。議会が怒っているのも、有権者が怒っているのも、全部事実だ。
「俺が言いたいのは」ホルトはゆっくり言った。「これは貿易の話じゃなくて、技術の話でもある、ということだ」
「どう違う」
「BTRONが潰れたとして、日本の子供たちが使うのはWindowsになる。マイクロソフトは喜ぶ。でもBTRONが解決しようとしていた問題——日本語という言語をコンピューターで本当に扱えるようにする、という問題——それは誰も解決しないまま残る」
リーヴィスは少し黙った。
「それはマイクロソフトが解決すればいい」
「解決するか?」
「金になるなら、するだろ」
ホルトは苦笑した。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。市場の論理は、必ずしも技術の問題を解決しない。でもそれを今ここで議論しても意味がない。
「とにかく」リーヴィスは言った。「上の方針は決まってる。お前がどう思うかは別の話だ」
ドアが閉まった。
ホルトは机の上のレポートを見た。一番上にあるBTRONの技術資料を手に取った。日本語で書かれている。四年間日本にいたから、読める。
設計思想のページを開いた。
文書とは何か。言語とは何か。人間がコンピューターと対話するとはどういうことか。そういう根本的な問いから設計が始まっている。
誰かがこれを、本気で考えた。
ホルトはレポートを閉じた。
窓の外、ポトマック川が光っている。
仕事は、割り切ってやる必要があった。
次回 第三章 決定通知




