表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
規格の墓碑銘 ―BTRONが葬られた日―  作者: 八雲 海


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/5

第二章 摩擦係数

ワシントンの九月は、東京より乾いていた。


 ジェームズ・ホルトは国際貿易センタービルの七階から、ポトマック川を見ていた。川面が光っている。空が広い。東京にいたとき、空がこんなに広く見えたことはなかった。ビルとビルの隙間から、申し訳程度に空が見える街だった。


 悪い街ではなかった。


 四年間、日本に駐在した。言葉を覚えた。食べ物は好きになった。人々は礼儀正しく、街は清潔で、電車は時間通りに来た。嫌いになる理由がなかった。


 だから仕事は、割り切ってやる必要があった。


 「ホルト、レポート見たか」


 声がして振り返ると、同僚のダン・リーヴィスがドアから顔を出していた。四十代、太り気味、いつもネクタイが緩んでいる。通商代表部に十五年いる古株だ。


 「見た」


 「TRONの件、上が本気だぞ。議会からも突き上げがある」


 「知ってる」


 ホルトは窓から離れて、自分の机に戻った。レポートが積んである。日本の文部省が発表したBTRON導入計画の資料、業界団体からの陳情書、シリコンバレーのロビイストからの分析レポート。


 マイクロソフト。アップル。インテル。


 彼らの懸念は明快だった。日本政府が特定のOSを教育市場で標準化すれば、アメリカ製品が入り込む余地がなくなる。子供の頃から別のOSに慣れた世代が育てば、将来の市場も失う。


 「でもな」ホルトは言った。「BTRONは性能が高い。日本語処理に関しては、うちのどの製品より優れてる」


 「だから危険なんだろ」


 「そういう意味で言ったんじゃない」


 リーヴィスは肩をすくめた。


 「感情移入するなよ。お前、日本にいすぎた」


 「感情移入じゃない。事実の話をしてる」


 「事実」リーヴィスはドアに寄りかかった。「事実はこうだ。日本は八〇年代に自動車でやった。半導体でやった。次はソフトウェアをやろうとしてる。アメリカの産業が潰れてから後悔しても遅い。それが事実だ」


 ホルトは答えなかった。


 間違ってはいない。日本の製造業がアメリカ市場を席巻したのは事実だ。デトロイトが傷ついたのも事実だ。議会が怒っているのも、有権者が怒っているのも、全部事実だ。


 「俺が言いたいのは」ホルトはゆっくり言った。「これは貿易の話じゃなくて、技術の話でもある、ということだ」


 「どう違う」


 「BTRONが潰れたとして、日本の子供たちが使うのはWindowsになる。マイクロソフトは喜ぶ。でもBTRONが解決しようとしていた問題——日本語という言語をコンピューターで本当に扱えるようにする、という問題——それは誰も解決しないまま残る」


 リーヴィスは少し黙った。


 「それはマイクロソフトが解決すればいい」


 「解決するか?」


 「金になるなら、するだろ」


 ホルトは苦笑した。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。市場の論理は、必ずしも技術の問題を解決しない。でもそれを今ここで議論しても意味がない。


 「とにかく」リーヴィスは言った。「上の方針は決まってる。お前がどう思うかは別の話だ」


 ドアが閉まった。


 ホルトは机の上のレポートを見た。一番上にあるBTRONの技術資料を手に取った。日本語で書かれている。四年間日本にいたから、読める。


 設計思想のページを開いた。


 文書とは何か。言語とは何か。人間がコンピューターと対話するとはどういうことか。そういう根本的な問いから設計が始まっている。


 誰かがこれを、本気で考えた。


 ホルトはレポートを閉じた。


 窓の外、ポトマック川が光っている。


 仕事は、割り切ってやる必要があった。


次回 第三章 決定通知


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ