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第3話 聞く耳は二つ

第3話 聞く耳は二つ


 翌朝、ミリアはまだ日が昇り切る前に目を覚ました。


 窓の外は薄青く、夜の冷気がわずかに残っている。


 だが、その涼しさも長くは続かない。


 昼になれば、また焼けつくような暑さが村を覆うのだ。


 母はすでに起きていた。


 麻のエプロンを身につけ、かまどの前で鍋を温めている。


 朝食は昨日の残りの豆の煮込みと、固くなった黒パンだった。


 ミリアは木の椀を両手で包みながら食べた。


 塩気の少ない豆は決して豪華ではない。


 それでも空腹の体にはありがたかった。


「今日は畑に行くの?」


 母が尋ねた。


「うん。でもその前に旅人さんのところへ行こうと思う」


「ヨナさん?」


「そう」


 母は少し驚いた顔をした。


「変わった人ね」


「そうかな」


「村のみんなは変わり者だって言ってる」


 ミリアは答えなかった。


 確かに変わっている。


 けれど嘘をついているようには見えなかった。


 食事を終えると、ミリアは家を出た。


 すでに朝日が地平線から顔を出している。


 赤い光が乾いた畑を照らしていた。


 遠くで羊が弱々しく鳴いている。


 かつては青々としていた牧草地も、今では黄色く枯れ果てていた。


 村の外れにある大きなイチジクの木の下で、ヨナは座っていた。


 膝の上には木の杖。


 手には何やら小さな木片。


 器用に削っている。


「おはようございます」


 ミリアが声をかける。


「おはよう」


 ヨナは笑った。


「朝は気持ちがいいのう」


「今だけですね」


「そうじゃな」


 二人は並んで座った。


 風が葉を揺らす。


 乾いた世界の中で、イチジクの木だけがわずかな緑を保っていた。


「なぜこの木だけ元気なんですか」


 ミリアが尋ねた。


 ヨナは木の根元を指差した。


「見てみなさい」


 近づくと、周囲には小石が敷き詰められていた。


「石?」


「夜露を集める」


「夜露?」


「少しずつじゃが、水になる」


 ミリアは目を丸くした。


「そんなことできるんですか」


「できる」


 ヨナは頷いた。


「少しでも水を逃がさない工夫じゃ」


 そこへ畑帰りの農夫たちが通りかかった。


 汗でシャツが張り付き、顔には疲れが浮かんでいる。


「また何か話してるぞ」


「旅人先生だ」


 誰かが笑った。


 ヨナは気にしない。


「土にも工夫ができる」


 そう言うと、乾いた地面を掘った。


 ほんの少し掘るだけで、中は表面より湿っていた。


「土を覆うんじゃ」


「覆う?」


「枯れ草や葉を敷く」


 農夫の一人が鼻で笑う。


「そんなことして何になる」


「水が逃げにくくなる」


「雨が降らないんだから同じだろ」


 別の男も言った。


「そうだそうだ」


「雨さえ降れば済む話だ」


 笑い声が上がる。


 ミリアは黙って聞いていた。


 ヨナは怒らない。


 ゆっくりと立ち上がった。


「雨が降れば確かに助かる」


「だろう?」


「じゃが、降るまで生きねばならん」


 男たちは顔を見合わせた。


「だから工夫をする」


「面倒くさい」


「そうだ」


「神が雨を降らせれば終わる」


 結局、誰も聞こうとしなかった。


 男たちは去っていった。


 その後ろ姿を見ながらミリアは首をかしげた。


「どうしてなんでしょう」


「何がじゃ」


「みんな、困っているのに」


 ヨナは小さく笑った。


「困っているからじゃ」


「え?」


「人は苦しくなると考える力が弱くなる」


 ミリアは黙った。


 確かに村人たちは疲れていた。


 毎日不安と戦っている。


 だから簡単な答えを求めるのかもしれない。


 昼になると、ヨナはさらに様々な話をした。


 乾燥に強い麦のこと。


 少ない水で育つ豆のこと。


 畑を風から守るために木を植える方法。


 昔訪れた砂漠の国の話。


 ミリアは夢中で聞いた。


 知らないことばかりだった。


 まるで本を読むようだった。


 いや、本よりも面白い。


 実際に見てきた人の言葉には重みがあった。


 夕方。


 神殿の前ではまた村人たちが集まっていた。


 長老エリアスもいる。


 ヨナは同じ話をした。


「水を蓄えなさい」


「土を守りなさい」


「乾燥に強い作物を育てなさい」


 だが返ってきたのは不満だった。


「雨を降らせれば済む話だ」


「神はまだなのか」


「なぜ答えてくださらない」


 祈りは次第に文句へ変わっていく。


 ミリアは胸が重くなった。


 神殿の石壁は夕日に赤く染まっていた。


 空には相変わらず雲がない。


 村人たちは空を見上げる。


 誰も地面を見ない。


 誰も山を見ない。


 誰もヨナを見ない。


 その夜。


 家へ帰る途中でミリアは父の形見の古い木椅子に腰掛けた。


 空には星が瞬いている。


 静かな夜だった。


 ふとヨナの言葉を思い出す。


「耳は大事じゃ」


 ミリアは自分の耳に触れた。


 二つある。


 目も二つある。


 鼻の穴も二つある。


 けれど口は一つしかない。


 なぜだろう。


 考えていると、父が昔よく言っていた言葉がよみがえった。


「ミリア。耳は二つ、口は一つだ」


「どうして?」


「たくさん聞いて、少し話すためだ」


 懐かしい声だった。


 胸が少し熱くなる。


 父はもういない。


 けれどその言葉だけは残っている。


 ミリアは夜空を見上げた。


「お父さん」


 風が吹いた。


 遠くでフクロウが鳴く。


 そして彼女は思った。


 もしかしたら。


 本当に大切なのは、祈ることだけではないのかもしれない。


 祈った後に耳を澄ませること。


 誰かの言葉を聞くこと。


 目の前に置かれた小さな答えを探すこと。


 それもまた必要なのではないだろうか。


 村中が空だけを見上げる中で、ミリアだけは少しずつ違う方向を見始めていた。


 まだ小さな変化だった。


 けれどその変化は、やがて村の運命を大きく動かすことになるのだった。



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