第4話 羊飼いの少年
第4話 羊飼いの少年
朝の空気はまだ少しだけ涼しかった。
ミリアは肩に小さな布袋を掛け、家を出た。
袋の中には黒パンが二切れと、母が作ってくれた豆の焼き団子が入っている。
畑へ向かう途中、乾いた風が頬を撫でた。
昔なら草の香りがした道も、今は土埃の匂いばかりだった。
神殿の前を通ると、長老エリアスと数人の村人が話をしていた。
「雨は必ず降る」
エリアスが言う。
「神は我々を見捨てておられない」
「ですが長老」
農夫の一人が顔を曇らせた。
「種も残り少ないんです」
「祈りなさい」
「はい……」
ミリアはその様子を見ながら通り過ぎた。
誰もヨナの話をしていない。
山の水のことも。
乾燥に強い作物のことも。
まるで聞かなかったことにしたようだった。
村外れのイチジクの木へ行くと、ヨナがいつものように座っていた。
膝には木の杖。
朝日に照らされた白い髭が輝いて見える。
「おはようございます」
「おはよう」
ヨナは笑った。
「今日は畑か」
「その前に聞きたいことがあります」
「ほう」
「本当に山に水があるんですか」
ヨナは嬉しそうに目を細めた。
「まだ気になっておったか」
「はい」
「なら探してみるとよい」
「私が?」
「耳で聞くより、目で見る方が早い」
その時だった。
遠くから羊の鳴き声が聞こえた。
振り返ると、十数頭の羊を追いながら一人の少年が歩いてくる。
日に焼けた顔。
ぼさぼさの茶色い髪。
つぎはぎだらけの上着。
腰には木の水筒がぶら下がっていた。
「あ、ルカだ」
ミリアは思わず声を上げた。
少年は村の羊飼いだった。
十三歳。
毎日山へ入って羊を放牧している。
「よう、ミリア」
ルカは気軽に手を振った。
「また旅人さんのところ?」
「うん」
するとヨナが興味深そうに少年を見た。
「お前さん、山へ行くのか」
「毎日」
「北側にも?」
「行くよ」
ルカは不思議そうな顔をした。
「なんで?」
ヨナは笑った。
「水があるそうじゃな」
ルカは目をぱちくりさせた。
「あるよ」
ミリアは思わず身を乗り出した。
「本当に?」
「ある」
「湧き水?」
「そう」
あまりにもあっさりした返事だった。
ミリアとヨナは顔を見合わせた。
「どこに?」
「山の奥」
「たくさん?」
「まあまあ」
ルカは肩をすくめた。
「羊が飲んでる」
ミリアは呆然とした。
そんな場所が本当にあるのだ。
しかも目の前の少年は知っている。
「どうして誰にも言わないの?」
ルカは苦笑した。
「言ったよ」
「え?」
「何回も」
ヨナが尋ねる。
「それで?」
「誰も信じなかった」
ルカは羊の頭を撫でた。
「子どもの話だからって」
ミリアの胸が痛んだ。
確かにそうかもしれない。
十三歳の少年の話より、長老の言葉を信じる人の方が多い。
「お前さんは案内できるか」
ヨナが聞いた。
「できるよ」
「今日か?」
「いいけど」
ミリアの心臓が高鳴った。
本当に見に行ける。
本当に確かめられる。
「私も行きます!」
ヨナは笑った。
「そう言うと思った」
昼前。
三人は山へ向かうことになった。
ミリアは家へ戻り、母に話した。
「山へ?」
母は驚いた。
「危なくない?」
「大丈夫」
「誰と行くの」
「ヨナさんとルカ」
母は少し考えた。
それから布に包んだ昼食を渡してくれる。
「気をつけてね」
「うん」
包みの中には焼いた豆の団子と、小さな干し果物が入っていた。
貴重な食べ物だ。
母の優しさが嬉しかった。
三人は昼前に出発した。
山道は想像以上に険しい。
乾いた土が靴の裏で崩れる。
石がごろごろ転がっている。
太陽は頭上から照りつけ、汗が額を流れた。
それでもルカは軽やかだった。
山羊のように岩を飛び越えていく。
「待ってよ!」
ミリアが叫ぶ。
「遅いなあ」
ルカが笑う。
「毎日登ってるから」
「私は毎日登ってないもの!」
ヨナが後ろで声を上げた。
「若いのう」
「ヨナさんも頑張って!」
「年寄りをいじめるな」
三人は思わず笑った。
久しぶりに楽しい気持ちになった。
途中で休憩した。
木陰に座り、昼食を広げる。
ミリアは豆団子を食べた。
素朴な味だった。
だが山の風の中で食べると不思議と美味しい。
ルカは干した羊乳のチーズを齧っている。
ヨナは黒パンをちぎりながら言った。
「ルカ」
「なに?」
「なぜ皆はお前の話を聞かぬと思う」
少年は少し考えた。
「子どもだからじゃない?」
「悲しいか」
「別に」
ルカは肩をすくめた。
「水があるのは本当だし」
ヨナは満足そうに頷いた。
「良い答えじゃ」
再び歩き始める。
山道はさらに狭くなった。
やがて木々が増え始める。
乾いた世界の中で、ここだけ少し空気が違った。
風が冷たい。
葉の色も濃い。
ミリアは立ち止まった。
「ねえ」
「なんだ?」
ルカが振り返る。
「ここだけ涼しくない?」
少年は笑った。
「だから言っただろ」
そう言って前を指差した。
「もうすぐだよ」
ミリアの胸が高鳴る。
ヨナは何も言わず微笑んでいる。
乾いた村。
誰も信じない話。
子どもの言葉。
山の奥。
そのすべての先にあるものを見ようとしていた。
そしてミリアはまだ知らなかった。
あと少し歩けば、自分たちの運命を変える最初の証拠が目の前に現れることを。




