第10話 奇跡はもう来ていた
第10話 奇跡はもう来ていた
収穫祭と呼ぶには、あまりにも質素な夕べだった。
だが村人たちにとって、それは何年ぶりかに訪れた希望の日だった。
神殿前の広場には長い木の机が並べられている。
豪華な料理はない。
焼いた黒パン。
豆の煮込み。
少しだけ残っていた干し果物。
野草のスープ。
それだけだった。
けれど、人々は久しぶりに笑っていた。
子どもたちの笑い声が聞こえる。
老人たちも穏やかな顔をしている。
空腹で険しくなっていた表情が少し柔らかくなっていた。
ミリアは大鍋をかき混ぜていた。
豆の香りが立ち上る。
かつて自分が植えた小さな種。
誰にも信じてもらえなかった種。
その種が今、人々の命を支えている。
ルカが大きな椀を抱えてやって来た。
「おかわり!」
ミリアは笑った。
「もう三杯目でしょう」
「成長期だから!」
「羊と同じこと言ってる」
二人は笑い合った。
そこへ長老エリアスが近づいてきた。
以前よりさらに痩せていたが、その目には別の光が宿っていた。
「ミリア」
「はい」
エリアスはしばらく黙った。
そして深く頭を下げた。
広場が静まり返る。
長老が頭を下げる姿など、誰も見たことがなかった。
「申し訳なかった」
震える声だった。
「私は聞かなかった」
ミリアは驚いて立ち尽くした。
「長老……」
「旅人の言葉も」
「……」
「ルカの言葉も」
「……」
「そしてお前の言葉も」
エリアスの目には涙が浮かんでいた。
「私は空ばかり見ていた」
誰も何も言えない。
ガルドも前へ出てきた。
あの種を笑った農夫だった。
「俺もだ」
大きな手で顔をこする。
「俺は毎日文句ばかり言っていた」
声がかすれていた。
「旅人を笑った」
「……」
「種も笑った」
「……」
「ルカまで笑った」
ルカは困ったように頭を掻いた。
「まあ、いいよ」
「よくない」
ガルドは首を振る。
「本当に悪かった」
すると他の人々も口を開き始めた。
「私も」
「私もだ」
「神様が何もしてくださらないと思っていた」
「ずっと怒っていた」
あちこちで涙がこぼれる。
誰かが泣き始める。
すると別の誰かも泣き始めた。
それは絶望の涙ではなかった。
ようやく気づいた人間の涙だった。
その時、ヨナが立ち上がった。
広場が静かになる。
老人はいつもの灰色の外套を着ていた。
旅を始めた日と変わらない姿だった。
「皆の者」
穏やかな声が響く。
「神は沈黙しておられたか」
誰も答えない。
答えを知っていたからだ。
ヨナは続ける。
「神は答えを送っておられた」
風が吹く。
豆の香りが揺れる。
「だが皆、自分の欲しい形しか見なかった」
人々は俯いた。
「こうあるべきだ」
ヨナは空を指差した。
「こうでなければならぬ」
そして足元を指差す。
「そう思い込むと、人は目の前の恵みを見失う」
静寂。
誰も反論しない。
なぜなら皆、その通りだったからだ。
湧き水があった。
種があった。
知恵があった。
ルカがいた。
ミリアがいた。
それなのに。
皆、自分の思い描く奇跡だけを待っていた。
ヨナは微笑んだ。
「じゃが今は違う」
その言葉に人々は顔を上げた。
「皆、聞く耳を取り戻した」
ミリアの胸が熱くなった。
聞く耳。
父が言っていた言葉。
耳は二つ。
口は一つ。
たくさん聞いて、少し話すため。
その夜。
宴が終わる頃。
ヨナは荷物をまとめていた。
古びた袋。
長い杖。
それだけだった。
ミリアは慌てて駆け寄る。
「行くんですか」
「行く」
「もう?」
「旅人じゃからな」
ヨナは笑った。
ルカも走ってくる。
「もっといてよ!」
「お前さんはもう大丈夫じゃ」
「何が?」
「ちゃんと見える」
ルカは首を傾げた。
ヨナはその頭を優しく撫でる。
「水も」
「うん」
「羊も」
「うん」
「人の心もな」
老人はゆっくり歩き出した。
村の出口へ。
誰も引き止められなかった。
旅人は旅人だからだ。
ミリアはその背中を見送った。
そして夜空を見上げる。
星が輝いている。
いつもの空。
何も変わらない空。
その時だった。
ぽつり。
何かが頬に当たった。
ミリアは目を瞬く。
もう一滴。
さらに一滴。
「え……」
ルカが空を見上げる。
「雨?」
誰かが叫んだ。
広場にいた人々も顔を上げる。
ぽつり。
ぽつり。
やがて雨粒は増えていった。
乾いた土へ落ちる。
石畳へ落ちる。
屋根へ落ちる。
何年ぶりだろう。
村に雨の匂いが広がった。
熱い土が濡れる匂い。
懐かしい匂い。
人々が歓声を上げる。
「雨だ!」
「雨だ!」
「神様!」
子どもたちは駆け回る。
老人たちは泣きながら空を見上げる。
エリアスは両手を広げていた。
ガルドは声を上げて泣いていた。
誰もが喜んでいる。
ミリアも嬉しかった。
本当に嬉しかった。
けれど。
彼女は知っていた。
本当の奇跡は今降り始めた雨ではない。
奇跡はもっと前から始まっていた。
山の奥の湧き水。
少年の言葉。
旅人の知恵。
一粒の種。
そして。
人々が再び聞く耳を持ったこと。
それこそが本当の奇跡だった。
雨の向こうに、ヨナの姿が小さく見えた。
老人は振り返らない。
ただ静かに歩いていく。
まるで最初から、自分は答えを届けるためだけに来たのだと言うように。
ミリアは雨に濡れながら微笑んだ。
そして心の中で静かに呟いた。
「神様」
雨が降る。
優しく。
豊かに。
だがミリアはもう知っていた。
奇跡は今日来たのではない。
奇跡はずっと前から、ここにあったのだと。




