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第9話 奇跡の正体

第9話 奇跡の正体


 干ばつが始まってから一年近くが過ぎていた。


 季節は巡っているはずなのに、村の景色だけが取り残されたようだった。


 畑は茶色い。


 川は細い。


 木々は葉を落とし、風が吹くたびに乾いた枝がこすれ合う音がした。


 朝の神殿前には、いつものように人々が集まっていた。


 だが、その顔にはもう怒りさえ残っていない。


 疲れだった。


 諦めだった。


 老人たちは俯き、若者たちは黙り込み、子どもたちの笑い声も少なくなっていた。


「昨日は何を食べた?」


 誰かが聞く。


「野草のスープだけだ」


「うちはパンがなくなった」


「うちは塩もない」


 そんな会話ばかりだった。


 長老エリアスも痩せていた。


 以前は堂々としていた肩が少し小さく見える。


 神殿の石段に腰を下ろし、遠い空を見つめている。


 その頃。


 ミリアは畑にいた。


 朝露はない。


 雨も降らない。


 それでも畑は生きていた。


 緑だった。


 村中のどの畑よりも。


 豆の葉が風に揺れている。


 背丈はミリアの膝ほどまで伸びていた。


 最初の小さな芽が出た日から、毎日水を運び続けた。


 山の湧き水。


 ルカと共に運んだ日もある。


 母と一緒の日もあった。


 肩が腫れた日も。


 熱で倒れそうになった日も。


 それでも続けた。


 そして今。


 畑には無数の莢が揺れていた。


 豆だった。


 実りだった。


 命だった。


「お母さん!」


 ミリアが呼ぶ。


 母が家から出てくる。


 薄い青色のエプロンをつけたまま畑へ走ってきた。


「どうしたの?」


 ミリアは豆の莢を手に取った。


「見て」


 母が目を見開く。


「まあ……」


 莢はふっくらしていた。


 中に豆が詰まっている。


 指で触れるだけで分かる。


「収穫できる」


 母の目に涙が浮かんだ。


「本当に……」


 その日の午後。


 ミリアと母は豆を収穫した。


 かごいっぱいに。


 一つ。


 また一つ。


 莢を摘むたびに胸が熱くなる。


 風が吹く。


 緑の葉が揺れる。


 まるで畑そのものが喜んでいるようだった。


 やがてルカがやって来た。


「おお!」


 目を丸くする。


「すごいじゃないか!」


「手伝って!」


「もちろん!」


 少年は飛び跳ねるように畑へ入った。


 三人で収穫を続ける。


 笑い声が響く。


 干ばつが始まってから初めての、心からの笑い声だった。


 夕方。


 収穫した豆を煮た。


 大鍋いっぱいに。


 母は乾燥した香草を入れた。


 少しだけ残っていた塩も使う。


 湯気が立ち上る。


 香りが広がる。


 豆の匂い。


 久しぶりの豊かな匂いだった。


 ミリアは思わず目を閉じた。


 懐かしい。


 食べ物の匂いがこんなに幸せだったなんて。


 そこへヨナが現れた。


「ほう」


 鍋を覗き込む。


「良い匂いじゃ」


「一緒に食べてください」


 ミリアが言う。


 ヨナは笑った。


「喜んで」


 木の器によそわれた豆の煮込み。


 黒パン。


 そして少しだけ残っていた干し果物。


 豪華な食事ではない。


 だが皆の顔は輝いていた。


 その時だった。


 匂いにつられたのか、近所の人々が集まってきた。


「何の匂いだ?」


「まさか肉か?」


 そして畑を見た。


 緑の葉。


 収穫された豆。


 かごの山。


 誰も言葉が出なかった。


 ガルドが呟く。


「そんな……」


 以前、種を笑った農夫だった。


「本当に育ったのか」


「育ちました」


 ミリアは答えた。


 ガルドは畑を見つめる。


 そして周囲を見渡した。


 他の畑は枯れている。


 だがここだけ違う。


 緑だった。


 命があった。


 人々が集まる。


 ざわめきが広がる。


「信じられん」


「どうして」


「なぜここだけ」


 ヨナは静かに食事を続けていた。


 やがて長老エリアスもやって来た。


 畑を見た瞬間、足を止める。


「これは……」


 ミリアは答えた。


「ヨナさんの種です」


 誰も喋らない。


「湧き水で育てました」


 沈黙。


 夕暮れの風だけが吹いている。


 その時。


 ルカがぽつりと言った。


「僕、最初から言ってたよ」


 誰も顔を上げられなかった。


 少年は続ける。


「山に水があるって」


 ガルドが俯く。


 エリアスも目を閉じた。


「そうだったな……」


 長老の声はかすれていた。


 ミリアは人々の顔を見た。


 皆、同じ表情だった。


 驚き。


 後悔。


 そして気づき。


 ヨナが静かに立ち上がった。


「ようやく見えたか」


 誰も反論しない。


 老人は続けた。


「湧き水も」


 人々は黙って聞く。


「種も」


「……」


「知恵も」


「……」


「助言も」


 ヨナは空を見上げた。


 相変わらず青い空だった。


 雨はまだ降っていない。


 だが老人は穏やかに言った。


「全部、干ばつが始まった時から与えられておった」


 その言葉は静かだった。


 だが雷よりも強く胸に響いた。


 エリアスが震える声で言う。


「では……」


「うむ」


 ヨナは頷く。


「神は沈黙しておられなかった」


 誰も言葉を返せなかった。


 なぜなら皆、思い当たることがあったからだ。


 ルカの言葉を聞かなかった。


 ヨナの言葉を聞かなかった。


 湧き水を軽んじた。


 種を笑った。


 答えは目の前にあった。


 それなのに。


 それなのに自分たちは別の形ばかり求めていた。


 夕日が村を赤く染める。


 その光の中で、人々はようやく理解し始めていた。


 奇跡とは何かを。


 そして本当に飢えていたのは、畑だけではなかったことを。


 聞く耳を失った心もまた、長い間飢えていたのだと。



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