第9話「階段の歌」
声だけでも、音は音です。
ひなたは、夜の白石さんを知っていた。
昼の白石さんは、しゃべらない。
けれど夜になると、暗い部屋のどこかで、音を鳴らす。
ひなたは、この施設で、いちばん小さかった。
まだ小学校に上がったばかりで、七つになったところだった。
ごはんのときは、いつも台の端っこの、高くした椅子にすわらされる。
手を上げても、棚のいちばん下にしか、とどかない。
廊下のスイッチにも、つまさきで背のびをしないと、ゆびが、あたらなかった。
年上の子たちは、ひなたのことを、ときどき、だっこして、二階まで運んでくれる。
ひなたは、それが、すきだった。
だれかの背中や、うでのなかは、あたたかい。
ひとりで階段をのぼると、段が、大きすぎて、こわいときがある。
ひなたの部屋は、二段ベッドが二つの、六畳の部屋だった。
ひなたのベッドの、ちょうど向かいに、白石さんのベッドがある。
白石さん、というのは、少しまえに来た子の名前だった。
ひなたより、いくつか、年上に見えた。
白石さんは、しゃべらない。
ひなたが
「おはよう」
と言っても、こっちを見ない。
ごはんのときも、目を、下に向けたまま、じっとしている。
だから、ひなたも、だんだん、話しかけなくなった。
こわいわけじゃない。
ただ、白石さんのまわりだけ、しんと、していて、声をかけると、その静かさを、やぶってしまう気がしたのだ。
でも、ひなたは、知っていた。
あれは、いつからだったろう。
夜、みんなが寝しずまったころ、ひなたの耳に、ときどき、細い音が、とどくことがあった。
布団のなかで、目をつぶっていると、暗い部屋のどこかから、ぽーん、と、小さな音が、ひとつ、鳴る。
それは、うたみたいな音だった。
声じゃない。
もっと細くて、まっすぐで、鳴ったあと、しばらく、空気のなかに、のこっている。
はじめて、その音を聞いた夜のことを、ひなたは、まだ、おぼえていた。
目が、ぱっと、あいた。
ねむかったのに、その音のせいで、いっぺんに、目がさめた。
ひなたは、顔を出さずに、布団のなかで、そっと、寝返りを打った。
そうして、音のするほうへ、耳を、かたむけた。
だれにも、気づかれないように。
それからは、その音が鳴るたびに、ひなたは、いつも、目を開けた。
顔は、出さない。
ただ、布団のなかで、じっと、その音のほうへ、耳をむける。
息を、ちいさく、して。
どこから鳴っているのか、ひなたには、わかっていた。
向かいのベッドの、白石さんのところ。
白石さんが、なにか、音の出るものを、布団のなかに、持っているらしいことも、ひなたは、なんとなく、知っていた。
昼のあいだ、ベッドの下に、四角い箱を、かくしていることも。
いちど、そうじのときに、ちらりと、見えたのだ。
木でできた、大きな箱だった。
でも、ひなたは、だれにも、言わなかった。
先生にも、ほかの子にも。
言ったら、あの音が、なくなってしまう気がしたから。
ところが、このごろ、あの音が、鳴らなくなった。
夜になっても、部屋は、しずかな、ままだった。
ひなたは、なんども、目を開けて、待ってみた。
けれど、あの、ぽーん、という音は、もう、鳴らない。
白石さんのベッドの下の、四角い箱も、いつのまにか、なくなっていた。
白石さんは、まえより、もっと、小さくなったみたいだった。
ごはんも、あまり食べない。
ひなたが見ていると、ときどき、右手を、左手のうえに、のせて、指だけを、そっと、動かしている。
なにをしているのかは、わからなかった。
でも、その指は、なにか、見えないものを、さがしているみたいだった。
あの音は、もう、鳴らないのかな。
ひなたは、すこし、さびしかった。
その日の夕方だった。
おやつのあと、ひなたは、二階の部屋に、うわぎを取りにいこうとして、階段を、のぼりかけた。
だっこしてくれる年上の子は、そばに、いなかった。
だから、ひなたは、手すりに、両手でつかまって、一段ずつ、じぶんの足で、のぼることにした。
冬の夕方は、はやく暗くなる。
階段の窓の外は、もう、うすい青色に、そまっていた。
電気は、まだ、ついていない。
段のうえは、ひんやりと、暗かった。
と、ひなたの足が、とちゅうで、止まった。
階段の、上のほう。
おどり場のところに、だれかが、すわっている。
白石さんだった。
ひざを抱えて、段のうえに、ちいさく、まるくなっている。
ひとりだった。
うでのなかには、なにも、なかった。
あの、四角い箱も、ない。
それなのに。
白石さんのところから、あの、細い音が、こぼれていた。
ひなたは、目を、まるくした。
箱は、ないのに。
どうして、と思った。
よく聞くと、それは、夜の、ぽーんという音とは、すこし、ちがった。
もっと、やわらかくて、あたたかい。
白石さんの、口から、もれていた。
口を、ほとんど、あけていない。
歌っている、というのとも、ちがう。
ことばは、ひとつも、なかった。
ただ、ん、ん、と、細い息が、そのまま音になって、こぼれてくる。
でも、ひなたには、わかった。
その、あがったり、さがったりする音のならびは、夜に、あの箱から鳴っていた音と、おなじだった。
おなじ、たかさ。
おなじ、じゅんばん。
のぼって、おりて、また、のぼる。
ひなたの耳のなかで、夜の音と、いまの声が、ぴたりと、かさなった。
白石さんは、あの箱の音を、こんどは、じぶんの声で、なぞっている。
だれかに聞かせようとしている声じゃない、と、ひなたは思った。
ひなたが、そこにいることにも、白石さんは、気づいていない。
目は、どこも、見ていない。
ただ、鳴らしたいから、鳴らしている。
そんな声だった。
うまいのか、へたなのかは、ひなたには、わからない。
そんなことは、どうでも、よかった。
ただ、その細い声は、うす暗い階段の、つめたい空気のなかを、ゆらゆらと、まっすぐに、のぼっていく。
聞いていると、ひなたの胸のおくが、なんだか、こそばゆく、なった。
いたいのとは、ちがう。
くすぐったいような、あたたかいような、へんな気もちだった。
ひなたには、それに、名前を、つけられなかった。
ただ、もっと、聞いていたい、とだけ、思った。
ひなたは、声を、かけなかった。
「白石さん」
と、呼ぼうとして、やめた。
呼んだら、この声が、やんでしまう。
夜の音と、おなじだ。
それを、ひなたは、もう、知っていた。
だから、ひなたは、そうっと、階段のかげに、身をひいた。
手すりの、いちばん下の柱のところ。
そこに、しゃがめば、白石さんからは、見えない。
ひなたは、ひざを抱えて、ちいさく、なった。
壁に、せなかを、ぴったりと、つける。
息を、とめる。
布団のなかで、いつも、そうしていたみたいに。
夕方の階段は、しんと、冷たかった。
ひなたの足のうらも、だんだん、つめたくなっていく。
うわぎを取りにいくことは、もう、わすれていた。
それでも、ひなたは、動かなかった。
もう一回、聞きたい。
ひなたのなかに、のこっていたのは、その気もちだけだった。
白石さんの声は、ときどき、とぎれた。
とぎれると、ひなたは、どきりと、する。
もう、おわりかな、と思う。
息を、つめて、つぎを、待つ。
でも、しばらくすると、また、ん、と、細い音が、こぼれてくる。
そのたびに、ひなたの胸は、ほっと、ゆるんだ。
ひなたは、階段のかげに、ちいさく、うずくまったまま、その歌が、もう一度、はじまるのを、息をころして、待っていた。
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