第10話「もう一回」
この一言を言える子は、強いと思います。
箱がなくなってから、何日たったのか、澪はもう数えていなかった。
昼も、夜も、指だけが動いた。
左手の指が、糸のない場所を押さえ、おぼえた線を、ひとりでになぞっていく。
ベッドの下には、四角い跡だけが、残っていた。
いつからだったか、澪の喉のおくが、指といっしょに動くようになった。
指が線をたどると、喉が、その線を、細くなぞる。
ん、と、息が、音になる。
声というほどの、声ではない。
指が上へのぼれば、音も、少し上へのぼる。
指がおりれば、音もおりる。
口のすぐ前で、ほろりと、消える。
それだけの、細い息だった。
それでも、澪の指と喉は、やめなかった。
とめる理由が、なかった。
だれにも、聞かせるつもりは、なかった。
指と喉だけが、なにもないところで、鳴らす相手を、まださがしていた。
その日の夕方だった。
おやつのあと、澪は、部屋のすみで、膝を抱えていた。
窓の外は、もう、うすい青にそまっている。
電気は、まだ、ついていない。
部屋のすみは、ひんやりと、暗かった。
だれもいない部屋のなかで、澪の喉は、いつものように、細く動いていた。
指が、膝の骨の上を、そっと、すべっていく。
その線を、喉が、追いかける。
足音が、近づいてきた。
ちいさな足音だった。
とん、とん、と、床を踏む。
それが、澪のすぐ前で、止まった。
顔を上げなくても、澪には、それが、だれかわかった。
この部屋で、いちばん小さい子。
向かいのベッドの、ひなただった。
「あの」
と、ひなたが言った。
澪の喉が、止まった。
だれかの耳が、こちらを向いている。
その気配だけで、澪の背中は、こわばった。
夜の音も、この喉の音も、だれにも聞かせるつもりは、なかった。
聞かれていた。
見つかった、と、澪は思った。
取り上げられる。
箱のときのように。
澪は、膝を、もっと強く抱えた。
目を、下に向けたまま、うごかない。
なにも言うな。
息を、ちいさく、する。
そうしていれば、いつか、この子は、あきらめて、行ってしまう。
けれど、ひなたは、行かなかった。
「きのうの」
と、ひなたが言った。
「うた」
澪の指が、ぴくりと動いた。
「もう一回」
澪は、はじめて、少しだけ、顔を上げた。
ひなたが、澪の前に、立っていた。
両手を、うしろで、組んでいる。
つまさきを、うちに向けて。
澪のことを、じっと、見ている。
その目には、責める色が、なかった。
うるさい、と言う目でも、なかった。
だめ、と言う目でも、ない。
ただ、待っている目だった。
澪は、その目を、知らなかった。
施設の大人は、いつも、澪に、なにかを求めた。
返事をしろ。
目を見て話せ。
音を、立てるな。
求められるたびに、澪は、身を小さくして、やり過ごした。
この子は、なにも、求めていなかった。
上手くなれ、とも言わない。
ちゃんとしろ、とも言わない。
ただ、もう一回、と言った。
きのうの音を、もう一回、聞きたい、と。
澪は、なにも言わなかった。
うそも、つかなかった。
目を、また、下に向ける。
ひなたのほうは、見ない。
それから、澪は、そっと、喉を、鳴らした。
ん、と、細い音が、こぼれた。
きのう、階段でこぼれたのと、おなじ音だった。
指がなぞる線を、喉が、細くたどる。
のぼって、おりて、また、のぼる。
口は、ほとんど開いていない。
だれかに聞かせるための、声ではなかった。
ただ、鳴らしたいから、鳴らしている。
それだけの、音だった。
ひなたは、うごかなかった。
澪の前に立ったまま、息を、ちいさくして、聞いている。
まばたきも、しない。
うしろで組んだ手を、そのままにして。
つまさきを、うちに向けたまま。
澪の音が、うすい青の部屋のなかを、細く、まっすぐに、のぼっていく。
部屋は、しんと、していた。
廊下のほうから、だれかの足音や、皿の鳴る音が、遠く聞こえる。
けれど、それは、この部屋までは、入ってこない。
澪の細い音と、ひなたの、ちいさな息だけが、うす暗いすみに、あった。
澪の声は、ときどき、とぎれた。
とぎれると、ひなたの肩が、きゅっと、上がった。
もう、おわりかな、という顔をする。
澪の音を、待っている顔だった。
澪は、その顔を、目のはしで、見ていた。
それから、また、喉を鳴らす。
ん、と、つぎの音が、こぼれる。
すると、ひなたの肩が、ほっと、さがった。
澪は、ふしぎだった。
いつもなら、だれかが前にいると、喉が、しまってしまう。
耳がこちらを向くと、音は、喉のおくで、うずくまってしまう。
それなのに、この子が前にいても、澪の喉は、しまらなかった。
なぜだろう、と、澪は思った。
この子は、うるさい、と言わない。
だめ、とも言わない。
ただ、待っている。
前の音が消えるのを、最後まで、待っていてくれる。
けれど、その先は、考えなかった。
考えるかわりに、もう一つ、喉を鳴らす。
その音も、とぎれずに、部屋のなかを、のぼっていった。
窓の外が、青から、暗い色にかわるまで、澪は、細く、鳴らしつづけた。
ひなたは、そのあいだ、ずっと、そこに立っていた。
箱は、もう、なかった。
それでも、澪の音は、まだ、鳴っていた。
施設から、ずいぶん離れた、古い家だった。
ひとつだけ点いた明かりの下で、男の手が、動いていた。
机のうえに、布が、ひろげてある。
その布のうえに、木の箱が、一つ、寝かされていた。
古いギターだった。
どこかで捨てられていたものらしく、胴には、ひびが走り、糸は、一本も張られていない。
表の板は、色があせ、金具は、くもっていた。
男の手が、その箱を、そっと、なでた。
ひびの溝を、指の腹で、一本ずつ、たどっていく。
ちょうど、だれかが、毎日、この箱を拭いていたときのように。
それから、男の手は、道具を取り、あせた木の面を、ていねいに、みがきはじめた。
ひとみがきごとに、くもっていた木が、少しずつ、鈍い色をとりもどしていく。
部屋のすみには、押し入れがあった。
その奥に、黒い革のケースが、一つ、置かれている。
閉じたまま、動かない。
男の手は、そちらには、伸びなかった。
手元にあるのは、別の一本だった。
布のうえで、みがかれた木が、明かりを、ほのかに返した。
男の手は、その古い箱の上を、ゆっくりと、動きつづけた。
ここまでで十話。よろしければ★をひとつ。





