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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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第11話「戻ってきた箱」

ものが戻ってくるとき、たいてい理由があります。


 ひなたに


 「もう一回」


 と言われた日から、澪のなかで、なにかが、もとに戻っていた。


 箱は、もう、ない。


 ベッドの下には、四角い跡だけが、のこっている。


 それなのに、澪の指は、また、鳴らす相手を、さがしはじめていた。


 喉の音では、たりなかった。


 口のすぐ前で、ほろりと消えてしまう、あの細い息では、たりない。


 もっと、遠くまで、のびていく音を、澪の指は、まだ、おぼえていた。


 夜は、もう、行けなかった。


 この前の夜、勝手口の戸の向こうで、澪を待っていた、大人の気配。


 あれから、夜の廊下には、いつも、だれかの目があった。


 夜に、外へ出ることは、できなくなっていた。


 けれど、その日の夕方、澪の足は、ひとりでに、動いていた。


 おやつのあと、うすい明かりが、まだ残っているうちに。


 冬の夕方は、はやく暗くなる。


 青い時間は、みじかい。


 澪は、その青いあいだに、塀のそとへ、そっと、すべり出た。


 道の冷たさが、はだしの足のうらに、じかに伝わってくる。


 一歩ごとに、白い息が、口から出て、宙で、ほどけた。


 行くあては、あった。


 足は、鳴ってもいい場所を、もう、おぼえている。


 公園は、青い暮れ方の底に、しずんでいた。


 すべり台の影は、もう、うすい。


 砂場の枠も、ぶらんこの鎖も、青いもやの中に、とけかけている。


 街灯は、まだ、点いていない。


 だれも、いなかった。


 いつものベンチのところまで来て、澪の足が、止まった。


 ベンチに、箱があった。


 澪の箱では、なかった。


 飴色の、あの箱では。


 もっと、古い箱だった。


 表の板は、鈍い茶色で、胴のあちこちに、ふさがった傷の跡がある。


 首の金具は、みがかれて、うすく光っていた。


 だれのものか、澪には、わからなかった。


 どうして、ここに置いてあるのかも、わからない。


 澪は、なぜ、とは、思わなかった。


 あの公園の夜、街灯のふちに立っていた人のことも、澪は、なぜ、とは思わなかった。


 音のするほうを、聞いていた人。


 近づきも、遠ざかりも、しなかった人。


 あの人が、なぜ、そこにいるのかを、澪は、いちども、たずねなかった。


 それと、おなじだった。


 わからないまま、澪は、ベンチに、近づいた。


 そっと、その箱に、手を、のせる。


 冷たい木の面に、指の腹が、ふれた。


 ふれた指が、ひとりでに、傷の溝を、たどりはじめる。


 ふさがった傷の、一本ずつを。


 その手ざわりに、澪の指が、ふと、止まった。


 この箱も、いちど、捨てられていた。


 澪には、それが、わかった。


 ゴミ捨て場で、雨も、夜露も、ぜんぶ吸って、それでも、木の匂いだけは、のこっている。


 飴色の、あの箱と、おなじだった。


 そして、だれかが、この傷を、指で、一本ずつ、なぞっていた。


 あせた木を、みがいて、鈍い色を、とりもどさせていた。


 澪が、毎日、飴色の箱を、拭いていたときのように。


 その、なぞった跡が、なでた跡が、木の面に、しずかに、のこっている。


 だれが、と、澪は、思いかけた。


 けれど、その先は、考えなかった。


 考えるかわりに、澪は、箱を、そっと、膝に、のせた。


 糸は、張ってあった。


 六本、ぜんぶ。


 澪は、右手の親指を、いちばん上の糸に、当てて、そっと、払った。


 ぼん、と、鈍い音が、鳴った。


 その音を聞いて、澪の耳が、小さく、こわばった。


 ずれている。


 あるべき場所から、半歩、外れて、宙に、ぶらさがっている。


 となりの糸も、その、となりも。


 ぜんぶが、少しずつ、まちがった高さで、鳴っていた。


 ずれた音は、耳のおくの、おなじところを、鳴るたびに、新しく、引っかいてくる。


 放っては、おけなかった。


 澪は、いちばんはしの金具に、指を、かけた。


 そっと、回す。


 弾く。


 音が、動く。


 ほんの少し、近づいた。


 また、回す。


 今度は、行きすぎる。


 戻す。


 近づく。


 指の下の、かたい手ごたえだけを、たよりに、少しずつ、少しずつ、音を、寄せていく。


 あるべき場所は、澪の耳のなかに、ずっと、見えている。


 この箱の音が、そこに居ないことだけは、どうしても、そのままには、しておけなかった。


 青い暮れ方の底で、澪は、一本ずつ、糸を、あわせていった。


 金具を回す指のほかは、なにも、動かない。


 白い息が、箱の胴の上を、ゆっくりと、流れていく。


 そして――澄んだ音が、ひとつ、鳴った。


 その糸が、あるべき場所に、はまった。


 澪は、息を、止めた。


 となりの糸も、あわせる。


 その、となりも。


 一本ずつ、居るべき場所へ、音が、帰っていく。


 六本、ぜんぶが、あるべき高さで、そろったとき、澪は、上から下へ、指を、すべらせた。


 鳴った。


 飴色の箱では、なかった。


 もっと古い、だれのものか、わからない箱だった。


 それでも、まだ、鳴った。


 澪には、それだけが、大事だった。


 上手いも、下手も、なかった。


 だれが置いたのかも、いまは、頭に、なかった。


 ただ、この箱が、まだ、鳴る。


 指の下で、糸が、もう、ずれていない。


 それが、うれしいのか、かなしいのか、澪には、わからないくらい、胸の、おくの、ずっと縮こまっていたところに、その音のぶんだけ、しみて、ほどけていった。


 青い時間が、暗い色に、変わりはじめていた。


 澪は、箱を、胸のほうへ、引き寄せた。


 取り上げられる前に、そうするのが、癖になっていた。


 けれど、いまは、だれも、いない。


 それでも、澪は、その古い箱を、両うでで、しっかりと、抱えた。


 はだしの足で、来た道を、戻る。


 箱の重みが、澪を、地面に、つなぎとめていた。


 施設の勝手口を、そっと、押す。


 さびた戸が、いつものように、低く、鳴いた。


 うすい明かりの、まだ残っているうちに、澪は、部屋の、すみへ、すべりこんだ。


 電気は、まだ、ついていない。


 窓の外は、もう、暗い青に、そまっている。


 澪は、部屋のすみで、膝を折って、古い箱を、抱えなおした。


 弾く、つもりは、なかった。


 だれかの耳が、まだ、こわい。


 ただ、糸が、そこにあると、指の腹が、すべってしまう。


 大きく、鳴らないように、澪は、ごく細く、糸を、はじいた。


 ぽーん、と、小さな音が、うす暗いすみに、こぼれる。


 あの、夜の音と、おなじ音だった。


 足音が、近づいてきた。


 ちいさな足音だった。


 とん、とん、と、床を踏んで、それが、澪のすぐ前で、止まる。


 顔を上げなくても、澪には、それが、だれか、わかった。


 ひなただった。


 ひなたは、澪の膝の上の、古い箱を、見ていた。


 目を、まるく、開けて。


 それから、その目が、みるみる、大きくなっていく。


 「箱」


 と、ひなたが、言った。


 「戻ってきたの」


 澪は、なにも、言わなかった。


 ちがう箱だ、とも、言わなかった。


 ただ、少しだけ、顔を、上げる。


 ひなたが、両手を、口に、あてていた。


 いつものように、うしろで組むのも、わすれて。


 つまさきが、うちを向いたまま、ぴょん、と、小さく、はねた。


 そして、ひなたが、笑った。


 澪は、その顔を、目のはしで、見た。


 ひなたが、笑うのを、澪は、はじめて、見た。


 その子の、口が、大きく、開いて、頬が、まるく、もり上がって、目が、ほそく、なっている。


 歯が、のぞいていた。


 声を、たてて、笑っていた。


 箱が、戻ってきた。


 それが、澪よりも、ずっと、ひなたには、うれしいらしかった。


 澪の胸よりも、この小さな子の胸のほうが、いっぱいに、なっているみたいだった。


 どうして、この子が、こんなに、笑うのか。


 澪には、うまく、わからなかった。


 自分の合わせた音のために、この子が、笑っているのだとは、澪は、思わなかった。


 ただ、箱が、戻ってきたから。


 ひなたは、それが、うれしいのだ。


 澪は、そう思って、それ以上は、考えなかった。


 考えるかわりに、澪は、また、糸を、そっと、はじいた。


 ぽーん、と、細い音が、こぼれる。


 すると、ひなたの笑顔が、もっと、大きく、なった。


 澪は、その笑顔を、また、目のはしで、見ていた。

その理由は、もう少し先で。明日もこの時間に。

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