第12話「はしに座る人」
隣ではなく、はし。その距離の話です。
戻ってきた箱を、澪は、暮れ方になると、公園へ連れていくようになった。
夜は、もう、行かない。
行けない。
廊下には、いつも、だれかの目がある。
けれど、暮れ方は、ちがった。
おやつのあと、青い時間が、まだ残っているうちに、澪は、勝手口から、そっと、外へ出る。
さびた戸が、低く、鳴く。
その音を、だれかが、聞いていないはずは、なかった。
台所には、いつも、大人がいた。
皿を洗う音。
鍋の、うすい湯気。
戸が鳴けば、その手が、いちど、止まる。
止まって、それから、また、動きだす。
追っては、こなかった。
一度だけ、廊下で、職員と、目が合ったことがある。
澪は、とっさに、箱を、胸のほうへ、引き寄せた。
取り上げられる、と思った。
あの箱のときのように。
けれど、その大人は、なにも、言わなかった。
暗くなる前に帰ってくること――ただ、それだけを、低い声で、言った。
箱を、寄こせ、とは、言わなかった。
澪の腕の中に、箱は、あった。
夜は、だめで、暮れ方は、なにも、言われない。
その線が、どこに、あるのかを、澪は、たずねなかった。
たずねれば、線が、引かれる気がした。
公園までの道は、澪の足が、もう、おぼえていた。
はだしの足のうらに、道の冷たさが、じかに伝わってくる。
一歩ごとに、白い息が、口から出て、宙で、ほどけた。
冬の暮れ方は、はやく暗くなる。
青い時間は、みじかい。
街灯は、まだ、点いていない。
澪は、その青いあいだに、公園へ、すべりこむ。
公園には、いつもの人が、いた。
街灯のふちの、いちばんはし。
明るいところへは、入ってこない。
コートの襟を立てて、白い息を、細く、のぼらせている。
夜でなくても、暮れ方でも、その人は、おなじ場所に、立っていた。
澪には、その人が来るのが、いつも、音で、わかった。
こつ、こつ、と、道を踏む足音。
それが、街灯のふちのところで、ぴたりと、止まる。
いつも同じ場所、いつも同じ距離で。
はじめは、こわいはずの気配だった。
知らない大人が、暮れ方の公園に、立っている。
それなのに、いまは、その足音が止まると、澪の肩から、すこし、力が、ぬけた。
いつもの気配だった。
あって、あたりまえの。
ある暮れ方から、澪は、気づいた。
街灯のふちの人の、ほかにも、人影が、あった。
すべり台の、向こう。
ベンチから、ずっと離れた、木のかげ。
一つ。
それから、二つ。
だれ、というのでは、なかった。
顔も、見えない。
名前も、知らない。
買い物の袋を、提げた人。
手を、こすり合わせて、足ぶみを、している人。
ほんの、いくつかの音のあいだだけ、立ち止まって、それから、また、歩いていく人。
少し離れて、立って、澪の音を、聞いて、それから、また、去っていく。
次の日には、いない人もいた。
次の日も、いる人もいた。
だれも、ベンチには、近づかなかった。
みんな、少し離れた、そのままの距離で、聞いていた。
澪は、その人影を、気にしすぎなかった。
公園で糸を払うと、澪は、うすい膜の中に入る。
払った音は、澪の手をはなれて、外へ、上へ、どこまでも、開いていく。
人影は、その膜の、ずっと外にあった。
ここには、
「うるさい」
と言う声が、なかった。
だれも、澪に、なにも、求めなかった。
やめろ、とも。
もっと、とも。
だから、澪は、人影のぶんだけ、身を小さくすることを、しなかった。
ただ、糸を、払う。
それだけで、よかった。
その日の暮れ方も、青い時間は、みじかかった。
澪は、いつものベンチに、箱を抱えて、座っていた。
はだしの足のうらに、冷えた地面が、じかに、伝わってくる。
糸を、一本ずつ、確かめて。
一つ、鳴らして、その音が消えるまで、耳で、追う。
そのときだった。
ベンチの、はしに、だれかが、腰を下ろした。
澪から、すこし離れた、反対の、はし。
板が、ことりと、沈んだ。
澪の指が、糸の上で、止まる。
顔は、上げなかった。
目のはしで、それを、見た。
若い人だった。
澪より、ずっと大きいけれど、大人と呼ぶには、まだ、どこか、細い。
薄いコートの肩を、すぼめて。
膝の上で、手を、組んでいる。
だれか、澪には、わからなかった。
見たことの、ない人だった。
組んだ手の甲が、寒さで、赤い。
細い息が、口から、白く、のぼっては、消えていく。
ほかの人影のように、少し離れて、立ったまま、聞くのでも、なかった。
この人は、ベンチに、腰を下ろした。
それも、澪と、おなじ、板の上に。
なにか、言うだろうか、と、澪は、待った。
どこの子だ、とか。
なにを、している、とか。
けれど、その人は、なにも、言わなかった。
うるさい、とも。
もう一回、とも。
ただ、そこに、座っている。
澪の音のするほうへ、顔を、すこし、外して。
まっすぐには、向けずに。
――街灯のふちの、あの人が、いつも、そうするように。
澪は、また、糸を、払った。
若い人は、動かなかった。
音が、つながるあいだ、ずっと、そこに、いた。
やがて、澪の指が、止まる。
最後の一音が、青い暮れ方の底で、細く、消えた。
いつもの人影なら、音が消えると、去っていく。
背を向けて、来た道を、帰っていく。
街灯のふちの人でさえ、そうだった。
最後の一音が消えると、レジ袋を提げなおして、来た道を、戻っていく。
けれど、その人は、立たなかった。
音が、終わっても。
ベンチのはしに、腰を下ろしたまま、動かない。
膝の上で組んだ手を、そのままにして。
じっと、暮れかけた公園を、見ている。
青い色が、すこしずつ、暗い色に、変わっていくのを。
すべり台の影が、もやの中に、とけていくのを。
その人は、ただ、そこから、見ていた。
急いで、どこかへ、帰ろうとする気配は、なかった。
澪は、顔を、すこし、上げた。
その人が、だれなのか、やっぱり、わからなかった。
どこから来たのかも。
なぜ、立たないのかも。
わからないまま、澪は、なぜ、とは、思わなかった。
ただ――音は、もう、鳴っていない。
それなのに、その人は、まだ、ここに、いた。
帰る場所が、どこかに、あるだろうに。
それでも、その人は、この、青い暮れ方の公園の、ベンチのはしを、動こうとしなかった。
だれかが、ここに、いる。
音が終わっても、ここに、いることを、えらんだ。
澪には、それが、どういうことなのか、わからなかった。
自分の鳴らした音のために、その人が、立たずにいるのだとは、澪は、思わなかった。
ただ、ベンチの、反対のはしに、その重みが、あった。
板の、すこし沈んだところに、たしかに。
冷えた板を、はさんで、澪と、その人の重みが、おなじ一枚の上に、乗っている。
澪は、その重みを、追い払いたい、とは、思わなかった。
取り上げられる、という、あの、いつもの、こわさも、こなかった。
ただ、そこに、あってもいい、と、澪の体のどこかが、思っていた。
澪は、もう一度、糸に、指を、当てた。
そして、そっと、払った。
ぽーん、と、細い音が、青い暗がりの中を、のぼっていく。
その音も、止めるものが、なにもないほうへ、外へ、上へ、開いていった。
その人は、まだ、動かなかった。
もう一つ、澪は、糸を、はじいた。
その人は、やっぱり、動かなかった。
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