第13話「昔、あそこにいた人」
町には、見ているだけの大人がわりといます。
その日の暮れ方も、澪は、箱を抱えて、公園へ来た。
青い時間は、いつものように、みじかい。
空の色が、上から、ゆっくりと、濃くなっていく。
街灯は、まだ、点いていない。
澪が、ベンチのところまで来たとき。
もう、いた。
ベンチの、反対のはしに。
きのうの、若い人だった。
薄いコートの肩を、すぼめて、膝の上で、手を、組んでいる。
澪より先に、そこに、座っていた。
澪が来るのを、待っていたのか。
それとも、ただ、そこに、いたのか。
澪には、わからなかった。
いつもの場所には、いつもの気配も、あった。
街灯のふちの、いちばんはし。
こつ、こつ、という足音は、澪が来る少し前に、もう、止まっていたらしい。
コートの襟を立てた、細い影が、明るいところの、すぐ外に、立っている。
二人。
おなじ、距離で。
ベンチのはしと、街灯のふち。
どちらも、澪に、近づいては、こなかった。
澪は、箱を、膝に、のせた。
はだしの足のうらに、冷えた地面が、じかに、伝わってくる。
糸を、一本ずつ、確かめて。
一つ、払う。
音が、澪の手をはなれて、外へ、上へ、開いていく。
若い人は、動かなかった。
澪は、糸を、払いつづけた。
一音、消えるまで、耳で、追って。
また、次を、鳴らす。
膜の中に、澪は、いた。
うすい、しずかな膜。
その膜の外に、二つの影が、あった。
ある音と、次の音の、あいだ。
澪の指が、糸の上で、ふと、止まった。
その、しずかな間に。
声が、した。
「……昔」
低い、かすれた声だった。
澪は、顔を、上げなかった。
目のはしで、それを、見た。
若い人は、澪のほうを、見ていなかった。
塀の、向こう。
木立の、あいだから、うっすら見える、四角い建物のほうを、見ていた。
澪の、施設のほうを。
「昔、おれ、あそこに、いた」
それだけ、だった。
だれに、言ったのでもない、みたいな言い方だった。
組んだ手の甲に、寒さの、赤い色が、のっている。
その手を、若い人は、見ていなかった。
ただ、建物のほうを、見て、それから、目を、下へ、落とした。
澪は、なにも、言わなかった。
あそこ、が、どこなのか。
その言葉が、どれくらい、重いのか。
澪には、わからなかった。
澪は、止めていた指を、糸から、そっと、離した。
そして、また、払った。
ぽーん、と、細い音が、青い暗がりを、のぼっていく。
若い人は、その音のするほうへ、また、顔を、すこし、外した。
なにか、言ってほしそうな気配は、なかった。
わかってほしそうな気配も、なかった。
ただ、言ってしまった、というふうに、そこに、座っている。
澪の払う音だけが、二人のあいだの、冷えた板の上を、渡っていった。
しばらく、若い人は、だまっていた。
澪の、二つ、三つの音を、聞いて。
それから、また、ぽつり、と、こぼした。
「……仕事、さがしてて」
膝の上の手を、すこし、握りなおして。
「あした、行くとこが、あるんだ。会って、話す、やつ」
澪は、糸を、払う手を、止めなかった。
その言葉の意味を、澪は、はんぶんも、わからなかった。
けれど、その声の色が、すこし、変わったのは、澪の耳に、わかった。
こわいような。
それでいて、行きたいような。
音の、そういう、ふるえ方を、澪の耳は、知っていた。
狂った糸を、あるべき場所へ、寄せていくときの、あの、半歩手前の、ふるえ。
澪は、なにも、言わずに、次の糸を、はじいた。
若い人は、それきり、だまった。
青い色が、暗い色に、変わっていく。
やがて、若い人が、立ち上がった。
板が、ことりと、もどる。
澪から離れた、反対のはしから、その重みが、消えた。
立ち上がった若い人は、すぐには、背を向けなかった。
澪のほうへ、半歩、体を、向けた。
なにも、言わなかった。
ただ、澪のいるほうへ、体の正面を、半分だけ、向けて、そこに、立った。
ほんの、みじかいあいだ。
それから、背を向けて、来た道を、歩いていった。
なぜ、こちらを向いたのか、澪には、わからなかった。
ただ、ベンチの、反対のはしが、また、空になった。
街灯のふちの影も、いつのまにか、消えていた。
澪は、ひとりに、なった。
それでも、澪の指は、止まらなかった。
もう、青い時間は、終わりかけていた。
空の底に、うすく残っていた青が、みるみる、暗い色に、沈んでいく。
澪は、糸を、はらった。
もう一つ、はらった。
音が、暗がりを、のぼっていく。
止めるものが、なにもないほうへ。
いつやめるか、澪は、わからなくなっていた。
一音、消える。
その消えたあとの、しずけさが、澪の耳に、あんまり深くて。
その深いところへ、また、次の音を、置いてしまう。
そうしているうちに。
ぱっ、と、頭の上で、白い光が、点いた。
街灯だった。
青い時間は、もう、終わっていた。
あたりは、すっかり、暗い。
澪は、はじめて、顔を、上げた。
公園には、だれも、いなかった。
澪は、箱を、両うでで、抱えて、立ち上がった。
はだしの足で、来た道を、戻る。
道は、暗かった。
白い息が、街灯の光の中で、ほどけては、また、暗がりに、消えた。
角を、曲がったところで。
「――こんな時間に、ひとりか」
声が、した。
大きくは、なかった。
けれど、澪の足が、止まった。
街灯の光の中に、大人が、立っていた。
紺色の、制服。
肩から、下げた、鞄。
自転車を、片手で、押している。
見回りの、大人だった。
澪は、とっさに、箱を、胸のほうへ、引き寄せた。
取り上げられる、と、体が、先に、思った。
あの箱のときのように。
両うでに、ぎゅっと、力が、こもる。
けれど、その大人は、箱に、手を、のばさなかった。
澪の、はだしの足を、見て。
それから、白い息を、はいた。
「……その足で、寒いだろう」
しかられている声では、なかった。
どこの子だ、とも、なにをしていた、とも、大人は、きつくは、聞かなかった。
ただ、しゃがんで、澪と、目の高さを、合わせた。
「家は、どこ。ひとりで、帰れるか」
澪は、なにも、言わなかった。
言えないのを、澪は、言えないままにした。
大人は、それ以上、問いつめなかった。
こまったように、いちど、あたりを、見回して。
それから、澪の歩くほうへ、自転車を、押して、ならんで、歩きだした。
「送るよ。あそこの、明るいとこまで」
少し先に、四角い、あかりが、あった。
夜どおし、点いている店の、白いあかり。
大人は、澪を、そのあかりの下まで、ゆっくりと、送った。
急かさずに。
澪の、はだしの歩幅に、合わせて。
あかりの下まで来ると、大人は、しゃがんだまま、澪の顔を、もういちど、見た。
「もう、暗いから。まっすぐ、帰るんだぞ」
悪いことを、した子を、見る目では、なかった。
澪は、こくり、とも、しなかった。
ただ、箱を、抱えたまま、あかりの下に、立っていた。
そのときだった。
店の、自動の戸が、しゃっ、と、横に、開いた。
中から、あたたかい空気が、白い息といっしょに、外へ、こぼれ出る。
出てきたのは、大きな人だった。
戸口が、いっぱいに、なるくらいの。
うすい上着の上に、店の名前の入った、うわっぱりを、着ている。
制服の大人が、その人に、ちいさく、頭を、下げた。
顔見知り、みたいだった。
その大きな人が、澪を、見た。
はだしの足を、見た。
胸に、抱えた箱を、見た。
それから、なにか、小さく、つぶやいた。
澪の、知らないことばだった。
この国の、ことばでは、なかった。
やわらかくて、まるい、はじめて聞く、音のならび。
けれど、澪の耳は、その音の、かたちを、拾った。
こまったような。
いたわるような。
――さむいのに、こんな、ちいさいのが。
そういう、いろの音だった。
意味の、輪郭だけが、澪の耳のおくに、ふわりと、落ちてくる。
澪は、その音を、聴いた。
聴いて、わかった。
けれど、なにも、言えなかった。
ありがとうも、いいえも、澪の口からは、出てこない。
いつものように。
澪の喉は、ことばを、外へは、出せなかった。
店の人は、こたえを、待たなかった。
いったん、店の中へ、消えて。
すぐ、また、出てきた。
大きな手に、あたたかい、白いものを、のせている。
うすい紙に、つつまれた、ほかほかの、まるいもの。
その手の上だと、それは、ずいぶん、ちいさく、見えた。
湯気が、白く、のぼっている。
店の人は、それを、澪のほうへ、さし出した。
制服の大人が、なにか言いかけて、口を、つぐんだ。
澪は、動かなかった。
箱を、胸に、抱えたまま。
差し出されたものを、どうしていいか、わからずに。
店の人は、白い歯を、みせて、わらった。
それから、片言の、この国のことばで、言った。
「寒いから。」
お読みいただきありがとうございました(*'ω'*)





