第14話「毎日、同じ時間の子」
その日の暮れ方も、澪は箱を抱えて公園へ滑り込んだ。
青い時間は、短い。
澪が来ると、いつものように人影がいくつかあった。
街灯のふちの、いちばん端。
こつ、こつ、という足音は、もう止まっている。
いつもの気配だった。
あって、当たり前の。
そのずっと後ろに、ほかの人影もあった。
すべり台の向こう。木の影。
ひとつ。それから、ふたつ。
いる日もあれば、いない日もある。
人影は、日によって入れ替わった。
澪には、それが音で分かった。
足音がやって来て、立ち止まり、また去っていく。
ベンチの反対側の端は、その日、空いていた。
昨日の若い人はいなかった。
「あした、行くとこがある」と言っていた。会って、話すやつ。
あの、怖いような、行きたいような声の色を、澪はまだ耳の奥に覚えている。
だから、その板の端が今日軽いことも、澪は「なぜ」とは思わなかった。
白いもののあたたかさも、まだ手のひらにうっすらと残っている。
あの、大柄な人の白い歯。
「寒いから」と片言で言った、丸い音。
澪はそれを一拍だけ思い返し、それから糸に指を置いた。
膝の上に、箱をのせる。
素足の裏に、冷えた地面の感触がじかに伝わってきた。
糸を、一本ずつ確かめる。
ひとつ、払う。
音が澪の手を離れ、外へ、上へと開いていった。
毎日、同じ人影はいなかった。
――ひとつの、動かない影を除いて。
すべり台の向こう、木のいちばん濃い影。
澪の音がそこまで届くと、いつもその影はじっとしていた。
足踏みもしない。
袋のカサリという音もしない。
ただ、そこにいた。
澪は目の端で、それを見た。
小さな影だった。
澪とあまり背丈の変わらない子ども。
肩に四角い鞄を掛けている。通学の鞄だった。
その子は鞄を膝の前で抱え込み、しゃがんでいた。
制服を着たままでの肩。
学校が終わって、ずいぶん時間が経っているはずだった。
夕暮れになっても。
まわりの人影が、みんな家路につく時間になっても。
その子は、まだそこにいた。
毎日、いた。
ほかの人影は、来る日もあれば来ない日もあった。
けれど、この子だけは、澪が公園に着くと決まってそこにいた。
いつも同じ、木の影に。
いつも同じ、時間に。
澪は、その子の名前も、なぜ毎日そこにいるのかも知らなかった。
ただ、糸を払う。
その子は、日ごとに少しずつ近づいてきていた。
はじめの日は、いちばん濃い木の影にいた。
次の日は、木から少し出た手前にいた。
その次の日は、すべり台の縁にしゃがんでいた。
澪は、その距離を音で測った。
払った音がその子の影に届くまでの、ほんのわずかな間。
その間が日ごとに短くなっていくのが、澪の耳にははっきりと分かった。
狂った糸をあるべき場所へと寄せていくときの、あの半歩ずつの寄り方に似ていた。
けれど、澪は身を小さく縮めなかった。
距離が縮まっても、いつもと同じ強さで糸を払う。
その子は、いまやすべり台の縁を離れ、ベンチの数歩手前まで来ていた。
通学鞄を膝の前に抱えたまま。
やはりしゃがみ込んで、何も言わずに。
ただ、澪の音の届く場所にしゃがんで、聴いていた。
澪は、その子のほうをまっすぐには見なかった。
目の端で見る。
音だけが、二人のあいだにあった。
澪が糸を払う。
その子は、じっと聴く。
言葉はなかった。
白い息が二つ、青い暗がりの中でほどけては消えていく。
澪の指が、糸の上で一度止まった。
一音が消えるまで耳で追って、静けさの深い底へ、また次の音を置く。
その、静かな隙間に。
澪は、目の端で見た。
その子の、膝の上の手だった。
通学鞄の上にのっている、小さな手。
その手の指が、澪の音に合わせてかすかに動いた。
とん、と。
鞄の布の上を、指先が押さえる。
また、とん、と。
澪の払う、音の切れ目に。
声は出さずに、手だけで。
その子は、何かを数えているようだった。
澪は、その指を見た。
なぜその指が動くのか、澪には分からない。
自分の音のためにその子の指が動いているのだとは、思いもしなかった。
ただ、青い暗がりの中で、澪の糸と、その子の小さな指が、同じゆっくりとした呼吸で動いていた。
澪は、その間を壊さないように、いつもと同じ呼吸で次の糸を払った。
その子の指も、また、とんと布の上を押さえる。
言葉はいらなかった。
青い色が、暗い夜の色へと変わっていく。
街灯は、まだ点いていない。
その子も、澪も、どちらも何も言わなかった。
やがて、澪の指が止まった。
最後の一音が、青い暮れ方の底で細く消える。
その消え去ったあとの静けさが、澪の耳には深かった。
けれど、その日はそこでやめた。
青い時間は、もう終わりかけている。
空の底に薄く残っていた青が、暗い夜の色に沈んでいく。
澪は箱を両腕で抱え、立ち上がった。
膝の上から、冷たい重みが離れる。
その子はしゃがんだまま、澪が立ち上がるのを目で追った。
何も言わなかった。
手も伸ばさない。
ただじっと、澪の箱を見つめていた。
澪はその子に背を向け、来た道のほうへと体を向けた。
素足で、冷えた地面を踏みしめる。
そのときだった。
木の影に、四角い小さな光があった。
白っぽい、四角。
手のひらに収まるくらいの大きさ。
その光の薄い明るさが、木立の影の中でひとつ、灯っていた。
誰かの手が、それを握っていた。
四角い光の、つるりとした面を澪のほうへ向けて。
じっと、動かさずに。
光の向こうの顔は、暗くて見えない。
どんな人がそれを向けているのかも分からない。
ただ、その小さな四角い光だけが、立ち上がった澪の、箱を抱えた背中をまっすぐに映し出していた。
澪は、それに気づかなかった。
いつものように、目の端で公園を見回す。
街灯のふちにあった影は、いつのまにか消えていた。
ベンチの手前にいた小さな子も、もう立ち上がって歩きだしている。
澪は箱を抱え直し、歩きだした。
白い息が口からこぼれて、暗がりに消える。
澪の背中を映した四角い光は、澪が角を曲がるまで、じっとその向きのまま灯り続けていた。
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