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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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15/30

第15話「数字が増える夜」

バイトが終わるのは、いつもその時間だった。

夕方から夜へ、色が変わっていくあの時間。

ミチクサは、駅からアパートまで歩いて帰る。途中に小さな公園があり、その脇の道を毎日通っていた。


ミチクサというのは、本名ではない。動画サイトで使っている名前だった。

まっすぐ帰らず、どこかで足を止めて、なんでもないものを撮る。そういう意味でつけた名前だ。

スマートフォンで撮った短い動画を、もう一年も上げ続けている。

再生数は、いつも二桁で止まった。知り合いが義理で押してくれているのがその半分くらいだろうと、ミチクサも薄々気づいている。

それでも、数字がひとつ動くたびに指先が少しあたたかくなる。その、かすかな熱が忘れられなかった。

いつか、ひとつくらい跳ねるかもしれない。

そのために、いつも何かを探しながら歩いている。

伸びる画。人が指を止めるような、何か。


その日も、何かを探しながら公園の脇を歩いていた。

青い時間だった。

空の底にまだ薄く青が残っていて、街灯は点いていない。

ふと、ミチクサの足が止まった。


音がした。弦を払うような音。

一音が鳴り、それがしばらく空気の中に残る。消えるのを待つみたいに。

それから、また次の一音。

ミチクサは音のするほうを見た。


公園の真ん中。ベンチに子どもがひとり座っている。

膝の上に、四角い箱のようなものをのせていた。古い、木の箱。よく見ると、それがギターらしかった。

子どもはそれを抱えるように持ち、指で弦を払っている。

冬なのに、素足だった。冷え切った地面に、足の裏をじかにつけている。

上手いのか下手なのか、ミチクサには分からない。

ただ、その音はなんというか――うまく言葉にできなかった。

言えないのに、足が動かない。

もう一音、聴きたい。

そう思っている自分に、ミチクサは気づいた。


その、気づいた瞬間に。

別の考えが、するりと上に覆いかぶさってきた。

――これは、伸びるかもしれない。

素足の子ども。箱のような、古いギター。青い、夕暮れの光。

画として、そろっている。

さっき足を止めさせた、あの音の「うまく言えない何か」は、いつのまにかミチクサの中で別の言葉にすり替わっていた。

――バズるかもしれない。

人が指を止める画になるかもしれない。ずっと探していた、あの何かに。


ミチクサの手は、もうポケットの中でスマートフォンを握っていた。

木の影に身を寄せる。そこなら暗くて、こちらの姿は見えない。

画面が光って目立たないよう、指先で光を抑え込む。

声はかけなかった。かけたら、音が止んでしまう気がしたからだ。それに、声をかけて断られるのも面倒だった。

撮ってから考えればいい。

そう割り切って、ミチクサはレンズを子どものほうへ向けた。


四角い画面の中に、素足の子の背中が映る。

箱を抱えた、小さな肩。

払われた音が、暗がりの中へ、上へと広がっていく。

ミチクサはそれを、身じろぎもせず撮り続けた。

子どもはこちらに気づかない。顔も見えない。

ただ、音だけがまっすぐこちらへ届いてくる。


やがて、子どもが立ち上がった。

箱を両腕で抱えて。

その背中が、レンズの中でこちらに背を向ける。

ミチクサはそれも撮った。子どもが角を曲がり、見えなくなるまで。

スマートフォンを構えたまま、その向きで持ち続けた。

姿が消えてから、ミチクサはようやく指を離す。

録画停止のマークが出る。

撮れた、と思った。なんとなく、いい画が撮れた気がした。


部屋に帰って、ミチクサはその動画を見返した。

二分にも満たない。暗くて、少し手ブレしている。

それでも、音はちゃんと入っていた。

ミチクサは、その二分間をいつもの動画サイトへ投稿することにした。

余計な編集はしない。

タイトル欄の前で、少し迷う。

派手な文句は書きたくなかった。なんとなく、それはこの音に似合わない気がしたからだ。

しばらく考えて、ミチクサは素っ気ない一行を打ち込んだ。


「近所の公園で、子どもがギター弾いてた」


説明欄も、短く済ませた。


「夕方、通りかかったら、聞こえてきた。うまく言えないけど、よかった。」


それだけだった。

アップロードの細い進捗バーが、少しずつ右へ伸びていく。

半分。四分の三。

いっぱいまで伸びて、ふっと消えた。

「公開」と画面に表示される。


ミチクサはそのページを、一度更新した。

再生数、ゼロ。

いつもの癖だった。投稿した直後に、まだ誰も見ていない数字をわざわざ確かめに行く。

明日には、二十くらいになっているだろう。いつもと同じだ。

ミチクサはスマートフォンを枕元に置いた。

明かりを消す。

布団に潜り込み、目を閉じた。

撮影したときのあの音が、まだ耳の奥にうっすらと残っていた。


翌朝、目が覚めて。

ミチクサはいつもの癖で、枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。

画面をつける。まだ、目が半分眠っている。

通知欄が、白く埋まっていた。

上から下まで、一度には画面に収まらないほどの通知が並んでいる。

ミチクサは眉をひそめた。まだ頭が追いつかない。

動画のページを開く。

再生数の数字を見た。


目が覚めた。

桁が違っていた。

昨夜、ゼロだった場所に、いま四つの数字が並んでいる。

その下に、コメント欄があった。

名前も知らない誰かの短い言葉が、上から下へ、いくつも、いくつも流れていた。

ミチクサは、指で画面を上へスクロールした。

まだ続いている。送っても、送っても、下から新しいコメントが湧き上がってくる。

どの言葉も短かった。

「いいね」とか、「なんだこれ」とか。

「泣いた」と、それだけ書かれたものもある。

顔も名前も知らない人たちだった。

その人たちがみんな、ミチクサの投稿した二分の動画の下に集まって、何かを言っている。


ミチクサは、もう一度数字のほうへ視線を戻した。

更新ボタンを押す。

数字が変わっていた。さっきより増えている。

ほんの数十秒のあいだに。

押す。

増える。

押す。

増える。

指が止まらなかった。


朝の薄い光が、部屋に差しこんでくる。

布団の中で、ミチクサはまだその数字を見つめていた。

嬉しい、というのとは少し違った。

怖い、というのとも違う。

名前のつけられない何かだった。


あの素足の子が、いま、どこで何をしているのか。

ミチクサは知らない。

知っているのは、この増え続ける数字だけだった。

胸の奥が落ち着かなくて、それでも画面から目が離せない。

ミチクサは、また更新ボタンを押した。

数字が、またひとつ増えた。

次回もお付き合いいただけたら幸いです。

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