第15話「数字が増える夜」
バイトが終わるのは、いつもその時間だった。
夕方から夜へ、色が変わっていくあの時間。
ミチクサは、駅からアパートまで歩いて帰る。途中に小さな公園があり、その脇の道を毎日通っていた。
ミチクサというのは、本名ではない。動画サイトで使っている名前だった。
まっすぐ帰らず、どこかで足を止めて、なんでもないものを撮る。そういう意味でつけた名前だ。
スマートフォンで撮った短い動画を、もう一年も上げ続けている。
再生数は、いつも二桁で止まった。知り合いが義理で押してくれているのがその半分くらいだろうと、ミチクサも薄々気づいている。
それでも、数字がひとつ動くたびに指先が少しあたたかくなる。その、かすかな熱が忘れられなかった。
いつか、ひとつくらい跳ねるかもしれない。
そのために、いつも何かを探しながら歩いている。
伸びる画。人が指を止めるような、何か。
その日も、何かを探しながら公園の脇を歩いていた。
青い時間だった。
空の底にまだ薄く青が残っていて、街灯は点いていない。
ふと、ミチクサの足が止まった。
音がした。弦を払うような音。
一音が鳴り、それがしばらく空気の中に残る。消えるのを待つみたいに。
それから、また次の一音。
ミチクサは音のするほうを見た。
公園の真ん中。ベンチに子どもがひとり座っている。
膝の上に、四角い箱のようなものをのせていた。古い、木の箱。よく見ると、それがギターらしかった。
子どもはそれを抱えるように持ち、指で弦を払っている。
冬なのに、素足だった。冷え切った地面に、足の裏をじかにつけている。
上手いのか下手なのか、ミチクサには分からない。
ただ、その音はなんというか――うまく言葉にできなかった。
言えないのに、足が動かない。
もう一音、聴きたい。
そう思っている自分に、ミチクサは気づいた。
その、気づいた瞬間に。
別の考えが、するりと上に覆いかぶさってきた。
――これは、伸びるかもしれない。
素足の子ども。箱のような、古いギター。青い、夕暮れの光。
画として、そろっている。
さっき足を止めさせた、あの音の「うまく言えない何か」は、いつのまにかミチクサの中で別の言葉にすり替わっていた。
――バズるかもしれない。
人が指を止める画になるかもしれない。ずっと探していた、あの何かに。
ミチクサの手は、もうポケットの中でスマートフォンを握っていた。
木の影に身を寄せる。そこなら暗くて、こちらの姿は見えない。
画面が光って目立たないよう、指先で光を抑え込む。
声はかけなかった。かけたら、音が止んでしまう気がしたからだ。それに、声をかけて断られるのも面倒だった。
撮ってから考えればいい。
そう割り切って、ミチクサはレンズを子どものほうへ向けた。
四角い画面の中に、素足の子の背中が映る。
箱を抱えた、小さな肩。
払われた音が、暗がりの中へ、上へと広がっていく。
ミチクサはそれを、身じろぎもせず撮り続けた。
子どもはこちらに気づかない。顔も見えない。
ただ、音だけがまっすぐこちらへ届いてくる。
やがて、子どもが立ち上がった。
箱を両腕で抱えて。
その背中が、レンズの中でこちらに背を向ける。
ミチクサはそれも撮った。子どもが角を曲がり、見えなくなるまで。
スマートフォンを構えたまま、その向きで持ち続けた。
姿が消えてから、ミチクサはようやく指を離す。
録画停止のマークが出る。
撮れた、と思った。なんとなく、いい画が撮れた気がした。
部屋に帰って、ミチクサはその動画を見返した。
二分にも満たない。暗くて、少し手ブレしている。
それでも、音はちゃんと入っていた。
ミチクサは、その二分間をいつもの動画サイトへ投稿することにした。
余計な編集はしない。
タイトル欄の前で、少し迷う。
派手な文句は書きたくなかった。なんとなく、それはこの音に似合わない気がしたからだ。
しばらく考えて、ミチクサは素っ気ない一行を打ち込んだ。
「近所の公園で、子どもがギター弾いてた」
説明欄も、短く済ませた。
「夕方、通りかかったら、聞こえてきた。うまく言えないけど、よかった。」
それだけだった。
アップロードの細い進捗バーが、少しずつ右へ伸びていく。
半分。四分の三。
いっぱいまで伸びて、ふっと消えた。
「公開」と画面に表示される。
ミチクサはそのページを、一度更新した。
再生数、ゼロ。
いつもの癖だった。投稿した直後に、まだ誰も見ていない数字をわざわざ確かめに行く。
明日には、二十くらいになっているだろう。いつもと同じだ。
ミチクサはスマートフォンを枕元に置いた。
明かりを消す。
布団に潜り込み、目を閉じた。
撮影したときのあの音が、まだ耳の奥にうっすらと残っていた。
翌朝、目が覚めて。
ミチクサはいつもの癖で、枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
画面をつける。まだ、目が半分眠っている。
通知欄が、白く埋まっていた。
上から下まで、一度には画面に収まらないほどの通知が並んでいる。
ミチクサは眉をひそめた。まだ頭が追いつかない。
動画のページを開く。
再生数の数字を見た。
目が覚めた。
桁が違っていた。
昨夜、ゼロだった場所に、いま四つの数字が並んでいる。
その下に、コメント欄があった。
名前も知らない誰かの短い言葉が、上から下へ、いくつも、いくつも流れていた。
ミチクサは、指で画面を上へスクロールした。
まだ続いている。送っても、送っても、下から新しいコメントが湧き上がってくる。
どの言葉も短かった。
「いいね」とか、「なんだこれ」とか。
「泣いた」と、それだけ書かれたものもある。
顔も名前も知らない人たちだった。
その人たちがみんな、ミチクサの投稿した二分の動画の下に集まって、何かを言っている。
ミチクサは、もう一度数字のほうへ視線を戻した。
更新ボタンを押す。
数字が変わっていた。さっきより増えている。
ほんの数十秒のあいだに。
押す。
増える。
押す。
増える。
指が止まらなかった。
朝の薄い光が、部屋に差しこんでくる。
布団の中で、ミチクサはまだその数字を見つめていた。
嬉しい、というのとは少し違った。
怖い、というのとも違う。
名前のつけられない何かだった。
あの素足の子が、いま、どこで何をしているのか。
ミチクサは知らない。
知っているのは、この増え続ける数字だけだった。
胸の奥が落ち着かなくて、それでも画面から目が離せない。
ミチクサは、また更新ボタンを押した。
数字が、またひとつ増えた。
次回もお付き合いいただけたら幸いです。





