第16話「知らないところで」
ミチクサの投稿した二分の動画は、その夜のうちに、知らない誰かの手によって別の場所へと運ばれていた。
転載、というやつだった。
名前も知らない、まったく別のアカウントから上げ直されている。
そこにミチクサの名前はなく、事前の断りもない。
「近所の公園で、子どもがギター弾いてた」
その、なんでもない一行は跡形もなく削ぎ落とされていた。
代わりに、太くけばけばしい文字で別の言葉が貼りつけられている。
「孤児院の天才少女」
誰が最初にその八文字を思いついたのかは分からない。
拾って、運んで、また別の誰かが拾って拡散した、名前も知らない無数の指先のどこかで。
いつのまにかあの子は、安っぽい憐憫と好奇心のラベルを着せられていた。
タイトルをすげ替えられた動画の再生数は、元の動画より桁が二つも跳ね上がっている。
そこからさらに転載を重ね、三つ、四つと枝分かれして増殖していく。
どれにも、同じ八文字がついていた。
素足だったことも、冬の凍てつく空気も、もうどこかへ脱ぎ捨てられて、その八文字だけが映像の上に乗り、ひとり歩きをはじめていた。
その下には、名前も知らない人々の言葉が濁流のようにたまっている。
もっと聴きたい。
どこの施設の子だ。
名前は何というのか。
誰ひとり、その子に直接会ったことはない。
会ったこともないまま、もっと、もっとと、無数の指先が液晶画面を下へスクロールさせていた。
そして――撮られた本人は、その狂騒を何ひとつ知らない。
その日も、澪は箱を抱えて暮れ方の公園へやってきた。
青い時間は、いつものように短い。
いつもの場所に、いつもの気配があった。
街灯のふちの、いちばん端。
コートの襟を立てた細い影が、明かりの境界線のすぐ外側に立っている。
こつ、こつ、という靴音は、澪が来る前にすでに止んでいた。
昨日と同じ距離を保ち、その影は澪へ決して近づいてこない。
ベンチから数歩のところには、あの小さな子がいた。
通学鞄を膝に抱え込んで。
昨日と同じ時間に、毎日同じその場所に。
澪は、箱を膝の上にのせた。
素足の裏に、冷え切った地面の感触がじかに伝わってくる。
糸を、一本ずつ指先で確かめる。
ひとつ、払う。
放たれた音が澪の手を離れ、外へ、上へと開いていった。
けれど、その日は木の影の光が違っていた。
昨日もそこに、白っぽい四角い光がひとつあった。手のひらに収まるほどの、つるりとしたガラスの光。昨日は、ひとつだけだった。
その日は、その光から少し離れた木立の奥に、もうひとつ同じ光が灯っている。
ふたつ。
それから、植え込みの葉陰にも、小さくひとつ。
みっつ。
どれも同じ青白い矩形で、どれもつるりとしたレンズの面を澪のいるほうへ向けていた。
人影も、いつもより明らかに多い。
立ち止まって身じろぎもしない影が、昨日より二つ、三つ増えている。
足踏みもしない。コンビニ袋のカサリという生活音もしない。
ただ、澪のいる方角をじっと見据えて立ち尽くしていた。
澪に分かったのは、それだけだった。
なぜ人が増えたのかは、澪には分からない。
街灯のふちの影は、昨日と同じ場所に佇んでいる。通学鞄の小さな子も、昨日と同じ場所に縮こまっている。
その二つの気配のことは、澪の身体がすでに覚えていた。そこに在っていい、呼吸を乱さない気配だと。
けれど、新しく灯った冷たい光の群れに対しては、澪の肩は強張ったまま緩まなかった。
それでも澪は、身を小さく縮めたりはしない。
光が増えても、得体の知れない影が増えても、いつもと同じ力加減で糸を払う。
やがて、澪の指が止まった。
最後の一音が、青い夕暮れの底で細く消え入る。
澪は箱を両腕で抱え、ベンチから立ち上がった。
その身体の動きに合わせて、いくつもの青白い光が一斉に向きを変え、澪の背中を追尾する。
澪は、それに気づかない。
いつものように、目の端で公園の輪郭を見回す。
街灯のふちにあった影は、いつのまにか闇へ溶けるように消えていた。通学鞄の小さな子は、まだそこに残っている。
澪は箱を胸の前で抱え直し、歩きだした。
白い吐息が口からこぼれ、暗がりにほどけて消える。
澪の背中を無言で映し出すいくつもの四角い光は、少女が角を曲がり切るまで、じっとその向きのまま闇の中で灯り続けていた。
その夜も、施設の中はいつもどおりだった。
夕食の時間。
食堂には子どもたちの生活の音が溢れていた。誰かが汁をこぼし、誰かが声を立てて笑う。配膳台の上で皿と皿がカチャリと触れ合う音。どこにでもある、夕暮れの日常の響きだった。
澪も、そこにいた。
配膳の列の端に並び、黙って汁物の椀を受け取っている。誰も澪のことをことさら特別扱いなどしない。いつもどおりの澪だった。
夕食が終わり、入浴を済ませ、消灯の時間がやってくる。
廊下の蛍光灯が、パチン、パチンと端から落ちていく。子ども部屋の木製ドアが静かに閉ざされる。
施設は静まり返った。いつもの、耳に痛いほどの夜の静寂だった。
誰も。
この建物の誰ひとり、塀の外の世界で何が起きているかを知らない。
小さな画面の中で、ひとりの少女が見知らぬ大衆の言葉を着せられ、消費されていることを、この守られた壁の内側では誰も知る由がなかった。
事務室の灯りだけが、まだ黄色く点いている。
園長先生は机の上で書類を揃えていた。一日の終わりを締めくくる、いつもの単調な作業だった。
その手を止めさせたのは、けたたましい電話の呼び出し音だった。
夜の事務室の静寂を切り裂いて、ベルの音がやけに甲高く響き渡る。
こんな時間にかかってくるはずがない――怪訝に思いながら、園長先生は受話器を取り上げた。
施設の名を告げる。
受話器の奥から返ってきたのは、聞き慣れない男の声だった。
丁寧で、淀みがなく、感情の起伏を綺麗に削ぎ落とした、プロの社交辞令の声。
「夜分に突然のご連絡、失礼いたします」
「――私、某テレビ局の報道情報番組を担当しております、者ですが」
園長先生の指先が、片づけかけの伝票の上でぴたりと止まった。
テレビ。
いま、この男は確かにそう名乗った。
なぜ、テレビ局がこんな辺鄙な児童施設に。
園長先生は受話器を耳に押し当てたまま、声が出せなかった。
暗い廊下の向こう、子どもたちの眠る部屋は静まり返っている。
その無防備な静けさのほうを、園長先生は思わず振り返った。
何も知らず、外の世界の悪意にも好奇心にも触れずに眠っている、幼い子どもたちのほうを。
用件の続きを待つ。
夜の事務室に、男の洗練された冷たい声だけが、土足で踏み込んでくるように響き続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。





