第17話「やさしい声」
その声は、いつもと違っていた。
朝の廊下だった。
洗面所から部屋へ戻る途中で、背後から大人の声が降ってくる。
かつて「箱を預からせてね」と告げた、あの職員の声だった。
その同じ声が、今朝はやけにやわらかい。
「白石さん」
名前を呼ばれ、柔らかなスリッパの足音が近づいてくる。
澪は足を止めた。
「ゆうべ、よく眠れた?」
いつものあの人は、そんな言葉をかける人ではなかった。
澪は答えず、嘘もつかない。
ただ、視線を足もとへ落とした。
「あのね」
声の温度が、もう一段やわらかく緩む。
「弾いて、いいのよ」
「がまん、しなくていいからね」
弾いて、いい。
前は、だめだった。夜に抜け出すことも、音を立てることも、すべて。
それが、今朝は「いい」へと反転している。
なぜ許されたのか、澪には分からない。
分からないまま、その理由を問い直そうとも思わなかった。
ただ――差し伸べられたやわらかい声は、澪の肩の緊張を解いてはくれない。
いつものあの人が発する、いつもと違う声。
その響きは、澪を守る薄い膜の外側でざらりと擦れる。
安堵するどころか、澪の喉はきゅっと細く締めつけられた。
昼になっても、その気配は続いた。
談話室の脇を通るたび、大人たちの視線がいくつも澪へと向けられる。
前は、誰も澪のことなど気に留めなかった。
配膳の列の端にいても、部屋の隅で小さく丸くなっていても、誰の視線も澪の上には留まらなかったのだ。
それが、今日は違う。
澪が通りかかると、大人の話し声がふっと途切れる。
そして、静かに澪を見つめてくる。
悪意のある目ではなかった。むしろ、温かく包み込むようなやさしい眼差しだ。
けれど、見つめられるほどに澪は身を縮こまらせた。
両肩を内側へ巻き込み、深くうつむいて早足で通り過ぎる。
小さくなっても、視線の重みは背中に張りついて離れない。
前は、小さくなれば世界から消えることができた。
いまは気配を殺そうとするほど、視線が集まってくる気がした。
澪の喉は、硬く塞がれたままだ。
午後の食堂は、奇妙なざわめきに満ちていた。
職員たちが数人、端のテーブルに身を寄せて話し込んでいる。
「あの子の」「あの音が」というささやきの断片が、澪の耳に届く。
自分の立てた音をめぐって大人たちが明るい声を弾ませているというのに、当の澪は、広い食堂の隅でぽつんと孤立していた。
澪の佇む隅には、古い木製の机がひとつ置かれていた。
前からがたつきのある机だった。
脚の一本が床に届かず、短く浮いている。
手のひらをのせると、「こ」と小さく傾く。
ずれた音だった。あるべき場所に収まっていない、不完全な音。
澪は周囲を盗み見た。誰もこちらには気づいていない。
ポケットから紙切れを一枚取り出し、小さく、硬い塊になるまで何度も折りたたむ。
身を屈め、机の下へと潜り込んだ。
浮き上がった脚と床の隙間に、その紙の塊をそっと差し入れる。
その手つきは、ギターの糸を指板に押し当てる所作と寸分違わなかった。
静かに、あるべき場所へ。
澪は立ち上がり、机の縁に体重を預けてみる。
強く押し込んでも、もう「こ」という乾いた不協和音は鳴らない。
ずれていた世界の軋みが、ひとつ消えた。
澪は小さく息を吐き出す。
誰もその行為を見てはいなかったし、机の歪みを直したのが澪だということも、知る人はいなかった。
その日の夕暮れ。
澪は応接間へと呼び出された。
足を踏み入れるのは、生まれて初めてだった。
ふだんは固く閉ざされている特別な部屋。湿り気を帯びた革ソファの匂いが鼻をつく。
園長先生が待っていた。
朝、廊下でやわらかな声をかけてきた職員も並んで腰掛けている。
二人とも、どこかよそ行きの空気を纏っていた。
いつもの気配ではない。背筋をぴんと伸ばし、声の調子だけが不自然なほど明るい。
「まあ、座って」
澪は言われるがまま、ソファの端に腰を下ろした。
深く沈み込む座面に、小さな体が深く埋もれる。素足の裏が、床からふわりと離れて宙に浮いた。
園長先生が身を乗り出してくる。
「あのね、澪ちゃん。とてもいいお話が届いているの」
園長先生の瞳は澄んで輝いていた。
嘘をついている目ではない。心の底から喜んでいる目だった。
「あなたのことをね、見つけてくれた人がいるのよ。それも、たくさん」
「本当に、すごいことなのよ」
もう一人の職員も、興奮を隠せないように身を揺らしてうなずく。
「うちの施設のことも、これで広く知ってもらえるわ」
「支援の手だって集まるかもしれない」
「この子たちの未来のためにもなるんです」
二人の弾んだ声が幾重にも重なり、密閉された応接間に反響する。
澪は、その熱気の中心に置かれたまま沈黙を守っていた。
足の裏は、どれほど伸ばしても床に届かない。
重ねた両手を膝の上に置き、ただうつむき続ける。
ソファはあまりにやわらかすぎて、踏ん張るための力をすべて吸い取ってしまう。
大地に足先をつけたいのに、その願いはどこにも届かなかった。
応接間のドアが、わずかに開いていた。
その細い隙間から、高く澄んだ、まあるい声が滑り込んでくる。
「みおちゃん」
ひなただった。
廊下の薄暗がりから首だけのぞかせ、澪をまっすぐに見上げている。
「みおちゃん、すごいの?」
誰もその問いには答えなかった。
大人たちは目の前の熱狂に夢中で、澪には返すべき言葉が見つからない。
ひなたは大きな丸い目で澪を見つめていた。
その声は、応接間に満ちる作為的な明るさとは違う、何の濁りもない光の音だった。
園長先生が、熱を帯びた眼差しのまま澪へと向き直る。
「あのね、澪ちゃん。舞台の上で、弾いてみない?」
舞台。
その見知らぬ響きを、澪は胸の奥にそっと転がしてみる。
「町の大きなホールでね、子どもたちのための催しが開かれるの」
「そこで、あなたのあの音を、たくさんの人に聴いてもらうのよ」
「テレビのカメラも入って、あなたの姿を撮ってくれるそうよ」
巨大な言葉の群れが、次から次へと澪の頭上をかすめ飛んでいく。
ホール。
催し。
テレビ。
撮る。
どれも澪が知る世界の大きさを遥かに超えた、重たい言葉だった。
その意味が、澪には半分だけ理解できた。
舞台で弾く。それは、なんとなく分かる。
けれど、それがなぜこれほど大人たちを昂らせているのか、残りの半分は霧の彼方にあった。
澪は何も答えなかった。
うなずくことも、首を横に振ることもしない。
ただ、膝の上の指先にわずかな力を込める。
けれど、澪の承諾など、最初から大人たちの計算には入っていなかった。
「日程は、来月の初旬で――」
「衣装も、清楚なものを用意しなくちゃね」
「テレビ局の方には、こうお伝えして――」
話は澪の意思を置き去りにしたまま、遥か頭上を越えて勢いよく転がり出していく。
澪は、その激しい渦の中心で。
まだ、ひとことも発していなかった。
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