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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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18/30

第18話「とどかない足」

日取りは、澪のいないところで決まっていた。


来月のはじめの日曜。

その日のことを、澪はあとから知る。

決めるとき、そこに澪はいない。


大人たちの声が、廊下で、事務室で、食堂の隅で重なっていく。

「日にちは、来月のはじめがいいわね」

「送り迎えには車を出しましょう」

「衣装は、白いものが映えるでしょう」

「テレビの人には、こう返事をしておくから」

「うちの子たちのためにもなる」

「支援だって集まるかもしれない」

「こんなにありがたいお話はないわ」


声と声が重なりあって、どの声も弾んでいた。

その声の中に、澪の返事を待つものはひとつもない。


澪は、そのあいだ隅にいる。

問われない。だから、答えることもない。

ときどき、大人の目が澪のほうを向く。

あなたも嬉しいでしょう、という顔で。

その目に射すくめられると、澪の首はこくりと下がる。

うなずく。

いいと思ったからではない。

嫌だと思わなかったからでもない。

ただ、見つめられると、首が先に動いてしまうのだ。


前に、大事な箱を預からせてと言われたときもそうだった。

澪の両腕はひとりでにほどけて、その手は箱を渡してしまった。

嫌だと言えたらいいのに。

けれど、そんなふうには澪の手はできていなかった。

断るという道が、澪の中にははじめから存在しない。

この建物が、澪に眠る場所を貸してくれている。

あたたかい汁物も、乾いた布団も。

そのことと、いまのうなずきとが、どこか細い糸でつながっていた。

けれど、それがなぜなのかを、澪は言葉にはしない。


大人たちの声は、澪の頭の上でまだ弾んでいる。

日にち。衣装。送り迎え。テレビ。

どの言葉も、澪のいる隅には降りてこない。

言葉は澪の頭上を越えて、先へ、先へと転がっていく。


その日の暮れ方。

澪は箱を抱えて公園へ向かった。

青い時間は、いつものように短い。


ベンチの反対側の端に、もういた。

薄いコートの、若い人。膝の上で手を組んでいる。

澪が来るのを待っていたのか、ただそこにいたのか、澪には分からない。

その気配のことを、澪の肩はもう覚えていた。

そこに在っていい気配だと。だから、澪の肩は強張らない。


澪は箱を膝にのせる。

素足の裏に、冷えた地面の感触がじかに伝わってきた。

糸を一本ずつ確かめて、ひとつ払う。

その音が消えるまでを、澪は待つ。

とん、とんと二拍ぶん待って、次の糸に指を置く。


膜の中に、澪はいた。

薄くて、静かな膜。

けれどその日は、膜がひどく薄かった。


木の影にある白っぽい光が、昨日よりまた増えている。

ひとつ、ふたつ、みっつ。数えるのを、澪はやめた。

どの光も、つるりとした面を澪のほうへ向けている。

立ち止まって動かない人影も、いつもより多い。

その光も、その影も、薄い膜のすぐ外側にあった。

澪の肩は、そちらへ向けては緩まない。


もうひとつ、いつもと違うことがあった。

街灯のふちの、いちばん端。

いつもならそこに、細い影が立っている。

こつ、こつとゆっくり道を踏みしめる足音の主。

その気配が、その日はいつもの場所より遠くにあった。

明かりの落ちる場所から、もう一歩、二歩後ろ。

膜のふちの、ぎりぎりの闇の中。

消えてはいない。けれど、遠い。

なぜ遠いのか、澪には分からない。分からないまま、なぜとは問わない。

ただ、その遠さだけが、澪の耳の端に残った。


ベンチの板が、ことりと軋む。

若い人が少し身じろぎした。それから、誰に言うでもなくひとことこぼす。


「……決まり、そうなんだ」


仕事の話だと、澪にはなんとなく分かった。

前にこの人が、怖いような、行きたいような声で言っていた、あのことだ。

その声の色が、今日は少し明るい。

よかった、とも澪は思わない。

ただ、その音の明るさだけを耳が拾い上げる。

若い人は、それきり黙った。


澪も、糸を払う。

二人のあいだの冷え切った板の上を、澪の音だけが渡っていった。

いつもの暮れ方。

けれど、いつもより静けさが薄い。

光が増えて、いつもの気配が遠くて、澪の膜はそこにあるのに、少しだけ破れてしまいそうな薄さになっていた。


施設に戻ると、澪を待っていたのは白い布だった。

まっさらなワンピース。

大人の手が、それを澪の肩に当てる。

「丈は、これでいいわね」

「袖は、少し詰めましょう」

くるりと、澪の体を回す。

澪は回されるままに回った。

腕を上げてと言われて上がり、下ろしてと言われて下がる。

抵抗という力は、澪の手にも足にも入らない。


「当日は、この白い靴を履きましょうね」

「髪は、こう結んで」

「名前を呼ばれたら真ん中へ出て、椅子に座るの」

「それから、弾きはじめるのよ。わかった?」


その問いに、澪の首はまたこくりと下がる。

分かったのではない。ただ、首が下がるのだ。

衣装がたたまれ、説明が重ねられる。そのたびに、澪はうなずく。

椅子にはこう座るの。お辞儀はこうするのよ。弾き終えたらこう立つの。

ひとつ教わるたびに、首がこくりと下がる。

うなずくたびに、その日が一日ずつ近づいてくる。

澪が「いい」と言ったことは一度もない。

それでも、話は進んでいく。


本番の前に、一度会場で合わせておく日がやってきた。

朝から白いワンピースを着せられる。あの日に着るのだと言われた、まっさらな布。

髪を結ばれ、白い靴を履かされて、車に乗せられた。

窓の外を知らない町が流れていく。


やがて、大きな建物の前で車が止まった。

町のホール。澪の知らない大きさの建物だった。

中は薄暗い廊下で、名前の書かれたドアがたくさん並んでいる。

澪は手を引かれて、「楽屋」という部屋に入った。

鏡がいくつも並んでいる。誰かが澪の髪に手を入れて整える。

今日は一度試しておくだけ、という大人の声が、澪の耳の上を流れていった。


やがて、名前を呼ばれる。

また手を引かれて廊下を歩く。歩くほど、音が近づいてきた。

人の声ではない。

何か重いものを運ぶ音。金物が床を引きずる音。とん、とんと板を打つ音。

舞台の袖まで、澪は連れてこられる。

薄暗い幕の影。その一歩先へ、手を引かれて幕の外へ出た。


目の前に、座席がずっと並んでいる。

どの椅子にも誰も座っていない。空っぽの客席が、暗がりの奥まで続いていた。

舞台の端では、大人たちが太いコードを束ねている。

銀色の棒の先に丸い網をはめて立てている。

上のほうで、誰かが明かりを試している。

大きな四角いものを肩に担いだ人がひとり、空っぽの客席のほうを指さして何か話していた。


澪は、その真ん中へ連れていかれる。

誰もいない広い座席のほうを向いて、立たされた。

白い靴のつま先が、板の上で揃えられる。


そのとき。


白い光が、一度に澪の頭上から降ってきた。

目の奥まで真っ白になるほどの、暴力的な眩しさ。


澪は、はじめて足を止めた。

その足の裏は、どこにも届いていなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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