第18話「とどかない足」
日取りは、澪のいないところで決まっていた。
来月のはじめの日曜。
その日のことを、澪はあとから知る。
決めるとき、そこに澪はいない。
大人たちの声が、廊下で、事務室で、食堂の隅で重なっていく。
「日にちは、来月のはじめがいいわね」
「送り迎えには車を出しましょう」
「衣装は、白いものが映えるでしょう」
「テレビの人には、こう返事をしておくから」
「うちの子たちのためにもなる」
「支援だって集まるかもしれない」
「こんなにありがたいお話はないわ」
声と声が重なりあって、どの声も弾んでいた。
その声の中に、澪の返事を待つものはひとつもない。
澪は、そのあいだ隅にいる。
問われない。だから、答えることもない。
ときどき、大人の目が澪のほうを向く。
あなたも嬉しいでしょう、という顔で。
その目に射すくめられると、澪の首はこくりと下がる。
うなずく。
いいと思ったからではない。
嫌だと思わなかったからでもない。
ただ、見つめられると、首が先に動いてしまうのだ。
前に、大事な箱を預からせてと言われたときもそうだった。
澪の両腕はひとりでにほどけて、その手は箱を渡してしまった。
嫌だと言えたらいいのに。
けれど、そんなふうには澪の手はできていなかった。
断るという道が、澪の中にははじめから存在しない。
この建物が、澪に眠る場所を貸してくれている。
あたたかい汁物も、乾いた布団も。
そのことと、いまのうなずきとが、どこか細い糸でつながっていた。
けれど、それがなぜなのかを、澪は言葉にはしない。
大人たちの声は、澪の頭の上でまだ弾んでいる。
日にち。衣装。送り迎え。テレビ。
どの言葉も、澪のいる隅には降りてこない。
言葉は澪の頭上を越えて、先へ、先へと転がっていく。
その日の暮れ方。
澪は箱を抱えて公園へ向かった。
青い時間は、いつものように短い。
ベンチの反対側の端に、もういた。
薄いコートの、若い人。膝の上で手を組んでいる。
澪が来るのを待っていたのか、ただそこにいたのか、澪には分からない。
その気配のことを、澪の肩はもう覚えていた。
そこに在っていい気配だと。だから、澪の肩は強張らない。
澪は箱を膝にのせる。
素足の裏に、冷えた地面の感触がじかに伝わってきた。
糸を一本ずつ確かめて、ひとつ払う。
その音が消えるまでを、澪は待つ。
とん、とんと二拍ぶん待って、次の糸に指を置く。
膜の中に、澪はいた。
薄くて、静かな膜。
けれどその日は、膜がひどく薄かった。
木の影にある白っぽい光が、昨日よりまた増えている。
ひとつ、ふたつ、みっつ。数えるのを、澪はやめた。
どの光も、つるりとした面を澪のほうへ向けている。
立ち止まって動かない人影も、いつもより多い。
その光も、その影も、薄い膜のすぐ外側にあった。
澪の肩は、そちらへ向けては緩まない。
もうひとつ、いつもと違うことがあった。
街灯のふちの、いちばん端。
いつもならそこに、細い影が立っている。
こつ、こつとゆっくり道を踏みしめる足音の主。
その気配が、その日はいつもの場所より遠くにあった。
明かりの落ちる場所から、もう一歩、二歩後ろ。
膜のふちの、ぎりぎりの闇の中。
消えてはいない。けれど、遠い。
なぜ遠いのか、澪には分からない。分からないまま、なぜとは問わない。
ただ、その遠さだけが、澪の耳の端に残った。
ベンチの板が、ことりと軋む。
若い人が少し身じろぎした。それから、誰に言うでもなくひとことこぼす。
「……決まり、そうなんだ」
仕事の話だと、澪にはなんとなく分かった。
前にこの人が、怖いような、行きたいような声で言っていた、あのことだ。
その声の色が、今日は少し明るい。
よかった、とも澪は思わない。
ただ、その音の明るさだけを耳が拾い上げる。
若い人は、それきり黙った。
澪も、糸を払う。
二人のあいだの冷え切った板の上を、澪の音だけが渡っていった。
いつもの暮れ方。
けれど、いつもより静けさが薄い。
光が増えて、いつもの気配が遠くて、澪の膜はそこにあるのに、少しだけ破れてしまいそうな薄さになっていた。
施設に戻ると、澪を待っていたのは白い布だった。
まっさらなワンピース。
大人の手が、それを澪の肩に当てる。
「丈は、これでいいわね」
「袖は、少し詰めましょう」
くるりと、澪の体を回す。
澪は回されるままに回った。
腕を上げてと言われて上がり、下ろしてと言われて下がる。
抵抗という力は、澪の手にも足にも入らない。
「当日は、この白い靴を履きましょうね」
「髪は、こう結んで」
「名前を呼ばれたら真ん中へ出て、椅子に座るの」
「それから、弾きはじめるのよ。わかった?」
その問いに、澪の首はまたこくりと下がる。
分かったのではない。ただ、首が下がるのだ。
衣装がたたまれ、説明が重ねられる。そのたびに、澪はうなずく。
椅子にはこう座るの。お辞儀はこうするのよ。弾き終えたらこう立つの。
ひとつ教わるたびに、首がこくりと下がる。
うなずくたびに、その日が一日ずつ近づいてくる。
澪が「いい」と言ったことは一度もない。
それでも、話は進んでいく。
本番の前に、一度会場で合わせておく日がやってきた。
朝から白いワンピースを着せられる。あの日に着るのだと言われた、まっさらな布。
髪を結ばれ、白い靴を履かされて、車に乗せられた。
窓の外を知らない町が流れていく。
やがて、大きな建物の前で車が止まった。
町のホール。澪の知らない大きさの建物だった。
中は薄暗い廊下で、名前の書かれたドアがたくさん並んでいる。
澪は手を引かれて、「楽屋」という部屋に入った。
鏡がいくつも並んでいる。誰かが澪の髪に手を入れて整える。
今日は一度試しておくだけ、という大人の声が、澪の耳の上を流れていった。
やがて、名前を呼ばれる。
また手を引かれて廊下を歩く。歩くほど、音が近づいてきた。
人の声ではない。
何か重いものを運ぶ音。金物が床を引きずる音。とん、とんと板を打つ音。
舞台の袖まで、澪は連れてこられる。
薄暗い幕の影。その一歩先へ、手を引かれて幕の外へ出た。
目の前に、座席がずっと並んでいる。
どの椅子にも誰も座っていない。空っぽの客席が、暗がりの奥まで続いていた。
舞台の端では、大人たちが太いコードを束ねている。
銀色の棒の先に丸い網をはめて立てている。
上のほうで、誰かが明かりを試している。
大きな四角いものを肩に担いだ人がひとり、空っぽの客席のほうを指さして何か話していた。
澪は、その真ん中へ連れていかれる。
誰もいない広い座席のほうを向いて、立たされた。
白い靴のつま先が、板の上で揃えられる。
そのとき。
白い光が、一度に澪の頭上から降ってきた。
目の奥まで真っ白になるほどの、暴力的な眩しさ。
澪は、はじめて足を止めた。
その足の裏は、どこにも届いていなかった。
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