第19話「リハーサル。人が多い」
前の日、客席は空っぽだった。
暗がりの奥まで、誰の姿もなかった。
今日は違う。
空っぽだった座席のあいだに、人がぽつぽつと点在している。いくつも間を空けて。
こちらを値踏みするように見つめる顔もあれば、手もとの紙の束に目を落としている顔もある。
舞台の端を、大人たちが行き交っていた。
太いケーブルを肩に担いだ人。
銀色のマイクスタンドを抱えた人。
台本をめくりながら、小声で何かを言い交わす二人。
天井の高いところで、いくつもの投光器がついたり消えたりを繰り返している。
鋭い白がひとつ灯って、消えて、今度は冷たい青がひとつ。
光が切り替わるたびに、舞台板の上の澪の影が、不気味に伸びたり縮んだりした。
空間には、冷えた機械油と埃の匂いがこもっている。昨日の無人だった空間にはなかった匂いだ。
幕の向こう側には、澪の見知らぬ子どもがひとり、大人に手を引かれて佇んでいた。
その子の履いている靴も、澪と同じように眩しいほどの白さだ。
前の日は死んだように静かだったこの巨大な空洞が、今日はあちこちから無遠慮な音を立てている。
澪の耳を包む薄い膜は、前の日の舞台袖からずっと、破れそうに張り詰めたままだった。
その膜のすぐ外側を、無数の異質な音が四方から押し寄せてくる。
どの音も、澪の知らない音ばかりだ。
公園の木板がことりと軋む、あの慎ましい座り方でもない。
夜道でこつ、こつとゆっくり近づく、あの足音の主でもない。
名前のつけられないノイズばかりが、右からも、左からも、頭上からも土足で降り注いでくる。
誰かの乾いた咳。
女の人の押し殺した笑い声。
硬い革靴が床を打つ鋭角な響き。
鉄パイプ同士がぶつかり合う金属音。
スピーカーの奥から漏れ出る、地鳴りのような低い唸り。その唸りの縁に、ときどき耳を刺す高周波の濁りが混じる。
紙が一斉に擦れ合う音。
パイプ椅子が床を引きずられ、甲高く悲鳴を上げる音。
誰かが澪の知らない業界の符牒で、短く何かを指示し合う声。
その言葉の断片は、意味を結ばないまま、ただの刺々しい音塊として澪の鼓膜を擦り抜けていく。
意味を理解しようとしても、すぐに次の音が上から覆いかぶさってくる。
どれも澪に向けられた声ではない。向いていないのに、容赦なく耳の奥へ雪崩れ込んでくる。
膜はそこにあるのに、その膜を外側から無数の硬い音が押し潰そうとしていた。
いつもの夕暮れの公園なら、膜の外の音は遠い川の流れのように、ひとつの穏やかな背景へと溶けていた。
今日は違う。
ひとつひとつの音が、鋭利な破片となって、膜の表面を容赦なく乱打してくる。
澪の肩の強張りは解けない。
前の日、ここで白い光を浴びてから石のように固まってしまった筋肉が、今日もこわばったままだ。
幕の影で、澪は立ち尽くして出番を待つ。
影の外側では光が大きく薙ぎ払うように動き、白い光の帯が客席の端から端をなめ回していった。
まばらな観客の頭の輪郭が、その光の中にふっと浮かび上がっては、また底知れない暗がりへと沈む。
やがて、名前を呼ばれる。
また、見知らぬ手に引かれた。
空っぽではなくなった客席の前に、澪は舞台の真ん中へと引き据えられる。
板の上を歩く。
硬い靴底が、空洞の舞台を踏み鳴らす。
その乾いた足音が天井の奥深くで反響し、少し遅れて背後から戻ってきた。まるで、見えない自分の影が後ろから追いすがってくるかのように。
舞台の中央に、椅子がひとつ置かれていた。
「座って」と促され、澪は浅く腰を下ろす。
息を吸い込む気道が、喉の奥できゅっと狭まった。昨日の白い閃光を浴びた瞬間から、その息苦しさは一度も消えていない。
白い靴のつま先を、板の上で揃える。
椅子の右後ろの脚がわずかに浮いているのか、体重を預けるたびに、こつ、と板を叩いて傾いた。
そのわずかながたつきを、澪の耳は逃さず拾ってしまう。
脚の下に紙片を一枚挟み込みさえすれば、この不快な音は消せると分かっている。
澪の指先が、膝の上でかすかに蠢いた。
けれど、ここではその手を伸ばすことすら許されない。
澪は、指を膝の上へと引き戻した。
暗がりのどこかで、声が響く。
「……じゃあ、一度通してみましょうか」
誰に向けられた合図なのか、澪には分からない。
けれど、その一声で、周囲のざわめきがわずかに息を潜めた。
箱を膝の上に抱え直す。
糸を一本ずつ、指の腹で確かめる。
いつもの暮れ方の、あのベンチと同じように。
ひとつ、払う。
音は鳴った。
けれど鳴ったそばから、ホールの巨大な空気に呑まれ、まわりの雑音の中へ散り散りに紛れていく。
澪は、その音が消えきるまでの余韻を待とうとする。
とん、とんと二拍分。いつもなら、その完全な静寂の中で次の糸に指を添える。
けれど今日は、とんと一拍目を数えた瞬間に、黒いスピーカーの唸りが一段低く膨らんだ。
拍の感覚が、そちらへ強引に引っ張られる。
とん、と数え直す。
今度は舞台袖の遠くで、金物が床を擦る嫌な音が響いた。またしても、拍がさらわれる。
もう一度、最初から数え直す。
とん、と一拍目。
そこで後方座席の誰かが、短く咳払いをした。
その咳に、二拍目の「とん」が跡形もなくかき消される。
二拍分の静寂が、どこにも訪れない。
間が測れない。
測れないまま、焦燥に押されるように、澪は次の糸へと指を滑らせてしまう。
音は出る。次の音も、指の下から生まれる。糸は確かに振動している。
鳴っているのに――その音があるべき場所へすとんと落ちる、あの確かな手応えがやってこない。
昨日のベンチで感じたあの不完全燃焼の欠落が、今日も埋まらない。
放たれた音は鳴っては空気の中に霧散し、鳴っては濁りに掻き消され、澪の音だけが世界のどこにも留まらない。
すくおうとした水が、指の隙間から滑り落ちていくように。
それでも、澪は弾き続ける。
身体が覚えた糸の配列を、指先が懸命になぞっていく。
いつもなら、この音の連なりの奥深くへ、澪は魂ごと沈潜していくことができた。
外の世界のノイズが遠ざかり、膜の内側の純粋な響きだけになれる。
けれど今日は、どうしても沈めない。
どれほど深く潜ろうとしても、身体の半分が膜の外側の冷たいノイズに晒されたままだ。
舞台の端で、太いケーブルを巻いていたスタッフのひとりが、ふと手を止めた。
束ねかけた黒いコードを垂らしたまま、顔だけを中央の椅子へと向け、じっと動かない。
ひとつ、ふたつ分の沈黙。
何かを訝しむように眉を寄せ、それから、また機械的に手を動かしはじめた。
澪はそれを見ていない。澪の破れかけた膜の外のできごとだ。
澪の指は、糸の上を行き来している。
覚えた並びを辿り、和音の切り替えが迫る。
左手が糸を押さえたまま、次のポジションへと滑り込もうとした。
そのときだった。
押さえていた指の腹が、糸からわずかに浮いた。
ほんの、紙一枚分の隙間。
浮いた弦の下で、金属がフレットを打つビビリ音が濁って鳴り響く。
澪は慌てて指を押し戻す。
次の和音がやってくる。
今度は、指を置く位置が半歩ずれた。
隣の弦の端をわずかにかすめ、立ち上がるはずだった澄んだ音がくぐもって潰れる。
澪はその指を、もう一度あるべき座標へと引き戻そうとする。
戻そうとするのに、指先がそこで止まってくれない。
押さえ直そうとする手首の奥から、細かく鋭い震えが這い上がってきた。
下から上へ。
手の甲へ。
指の付け根へ。
その震えの先で、弦を必死に押さえつけているのに、力を込めるべき芯がどこにも定まらない。
震えは。
もう、止まらなかった。
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