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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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19/30

第19話「リハーサル。人が多い」

前の日、客席は空っぽだった。

暗がりの奥まで、誰の姿もなかった。

今日は違う。

空っぽだった座席のあいだに、人がぽつぽつと点在している。いくつも間を空けて。

こちらを値踏みするように見つめる顔もあれば、手もとの紙の束に目を落としている顔もある。


舞台の端を、大人たちが行き交っていた。

太いケーブルを肩に担いだ人。

銀色のマイクスタンドを抱えた人。

台本をめくりながら、小声で何かを言い交わす二人。

天井の高いところで、いくつもの投光器がついたり消えたりを繰り返している。

鋭い白がひとつ灯って、消えて、今度は冷たい青がひとつ。

光が切り替わるたびに、舞台板の上の澪の影が、不気味に伸びたり縮んだりした。


空間には、冷えた機械油と埃の匂いがこもっている。昨日の無人だった空間にはなかった匂いだ。

幕の向こう側には、澪の見知らぬ子どもがひとり、大人に手を引かれて佇んでいた。

その子の履いている靴も、澪と同じように眩しいほどの白さだ。

前の日は死んだように静かだったこの巨大な空洞が、今日はあちこちから無遠慮な音を立てている。


澪の耳を包む薄い膜は、前の日の舞台袖からずっと、破れそうに張り詰めたままだった。

その膜のすぐ外側を、無数の異質な音が四方から押し寄せてくる。

どの音も、澪の知らない音ばかりだ。

公園の木板がことりと軋む、あの慎ましい座り方でもない。

夜道でこつ、こつとゆっくり近づく、あの足音の主でもない。

名前のつけられないノイズばかりが、右からも、左からも、頭上からも土足で降り注いでくる。


誰かの乾いた咳。

女の人の押し殺した笑い声。

硬い革靴が床を打つ鋭角な響き。

鉄パイプ同士がぶつかり合う金属音。

スピーカーの奥から漏れ出る、地鳴りのような低い唸り。その唸りの縁に、ときどき耳を刺す高周波の濁りが混じる。

紙が一斉に擦れ合う音。

パイプ椅子が床を引きずられ、甲高く悲鳴を上げる音。

誰かが澪の知らない業界の符牒で、短く何かを指示し合う声。

その言葉の断片は、意味を結ばないまま、ただの刺々しい音塊として澪の鼓膜を擦り抜けていく。

意味を理解しようとしても、すぐに次の音が上から覆いかぶさってくる。

どれも澪に向けられた声ではない。向いていないのに、容赦なく耳の奥へ雪崩れ込んでくる。


膜はそこにあるのに、その膜を外側から無数の硬い音が押し潰そうとしていた。

いつもの夕暮れの公園なら、膜の外の音は遠い川の流れのように、ひとつの穏やかな背景へと溶けていた。

今日は違う。

ひとつひとつの音が、鋭利な破片となって、膜の表面を容赦なく乱打してくる。


澪の肩の強張りは解けない。

前の日、ここで白い光を浴びてから石のように固まってしまった筋肉が、今日もこわばったままだ。

幕の影で、澪は立ち尽くして出番を待つ。

影の外側では光が大きく薙ぎ払うように動き、白い光の帯が客席の端から端をなめ回していった。

まばらな観客の頭の輪郭が、その光の中にふっと浮かび上がっては、また底知れない暗がりへと沈む。


やがて、名前を呼ばれる。

また、見知らぬ手に引かれた。

空っぽではなくなった客席の前に、澪は舞台の真ん中へと引き据えられる。

板の上を歩く。

硬い靴底が、空洞の舞台を踏み鳴らす。

その乾いた足音が天井の奥深くで反響し、少し遅れて背後から戻ってきた。まるで、見えない自分の影が後ろから追いすがってくるかのように。


舞台の中央に、椅子がひとつ置かれていた。

「座って」と促され、澪は浅く腰を下ろす。

息を吸い込む気道が、喉の奥できゅっと狭まった。昨日の白い閃光を浴びた瞬間から、その息苦しさは一度も消えていない。

白い靴のつま先を、板の上で揃える。

椅子の右後ろの脚がわずかに浮いているのか、体重を預けるたびに、こつ、と板を叩いて傾いた。

そのわずかながたつきを、澪の耳は逃さず拾ってしまう。

脚の下に紙片を一枚挟み込みさえすれば、この不快な音は消せると分かっている。

澪の指先が、膝の上でかすかに蠢いた。

けれど、ここではその手を伸ばすことすら許されない。

澪は、指を膝の上へと引き戻した。


暗がりのどこかで、声が響く。

「……じゃあ、一度通してみましょうか」

誰に向けられた合図なのか、澪には分からない。

けれど、その一声で、周囲のざわめきがわずかに息を潜めた。


箱を膝の上に抱え直す。

糸を一本ずつ、指の腹で確かめる。

いつもの暮れ方の、あのベンチと同じように。

ひとつ、払う。


音は鳴った。

けれど鳴ったそばから、ホールの巨大な空気に呑まれ、まわりの雑音の中へ散り散りに紛れていく。

澪は、その音が消えきるまでの余韻を待とうとする。

とん、とんと二拍分。いつもなら、その完全な静寂の中で次の糸に指を添える。

けれど今日は、とんと一拍目を数えた瞬間に、黒いスピーカーの唸りが一段低く膨らんだ。

拍の感覚が、そちらへ強引に引っ張られる。

とん、と数え直す。

今度は舞台袖の遠くで、金物が床を擦る嫌な音が響いた。またしても、拍がさらわれる。

もう一度、最初から数え直す。

とん、と一拍目。

そこで後方座席の誰かが、短く咳払いをした。

その咳に、二拍目の「とん」が跡形もなくかき消される。

二拍分の静寂が、どこにも訪れない。

間が測れない。

測れないまま、焦燥に押されるように、澪は次の糸へと指を滑らせてしまう。


音は出る。次の音も、指の下から生まれる。糸は確かに振動している。

鳴っているのに――その音があるべき場所へすとんと落ちる、あの確かな手応えがやってこない。

昨日のベンチで感じたあの不完全燃焼の欠落が、今日も埋まらない。

放たれた音は鳴っては空気の中に霧散し、鳴っては濁りに掻き消され、澪の音だけが世界のどこにも留まらない。

すくおうとした水が、指の隙間から滑り落ちていくように。


それでも、澪は弾き続ける。

身体が覚えた糸の配列を、指先が懸命になぞっていく。

いつもなら、この音の連なりの奥深くへ、澪は魂ごと沈潜していくことができた。

外の世界のノイズが遠ざかり、膜の内側の純粋な響きだけになれる。

けれど今日は、どうしても沈めない。

どれほど深く潜ろうとしても、身体の半分が膜の外側の冷たいノイズに晒されたままだ。


舞台の端で、太いケーブルを巻いていたスタッフのひとりが、ふと手を止めた。

束ねかけた黒いコードを垂らしたまま、顔だけを中央の椅子へと向け、じっと動かない。

ひとつ、ふたつ分の沈黙。

何かを訝しむように眉を寄せ、それから、また機械的に手を動かしはじめた。

澪はそれを見ていない。澪の破れかけた膜の外のできごとだ。


澪の指は、糸の上を行き来している。

覚えた並びを辿り、和音の切り替えが迫る。

左手が糸を押さえたまま、次のポジションへと滑り込もうとした。


そのときだった。


押さえていた指の腹が、糸からわずかに浮いた。

ほんの、紙一枚分の隙間。

浮いた弦の下で、金属がフレットを打つビビリ音が濁って鳴り響く。

澪は慌てて指を押し戻す。

次の和音がやってくる。

今度は、指を置く位置が半歩ずれた。

隣の弦の端をわずかにかすめ、立ち上がるはずだった澄んだ音がくぐもって潰れる。

澪はその指を、もう一度あるべき座標へと引き戻そうとする。

戻そうとするのに、指先がそこで止まってくれない。


押さえ直そうとする手首の奥から、細かく鋭い震えが這い上がってきた。

下から上へ。

手の甲へ。

指の付け根へ。

その震えの先で、弦を必死に押さえつけているのに、力を込めるべき芯がどこにも定まらない。


震えは。

もう、止まらなかった。

お読みいただきありがとうございました(*'ω'*)

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