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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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第20話「しろい、あかり」

その日が、やってくる。


澪のいないところで決められた、その日が。


朝から白いワンピースを着せられる。

あの日、合わせておいた、まっさらな布。

髪を結ばれ、白い靴を履かされて、車に乗せられた。

窓の外を知らない町が流れていく。

一度訪れた、あの大きな建物の前で車が止まった。


中は前と同じ、薄暗い廊下。

名前の書かれたたくさんのドア。鏡の並んだ部屋。

誰かが澪の髪に手を入れて整える。

「今日は、試すだけじゃないからね」

その声が、澪の耳の上を流れていった。


やがて、名前を呼ばれる。

また手を引かれて廊下を歩く。

歩くほどに、音が近づいてきた。

けれどその音は、前の日のリハーサルで聞いた音とも違っていた。


薄暗い幕の影。

澪はその手前で一度、足を止める。

幕の向こうから、人の気配が前の日よりもずっと熱く押し寄せてきていた。

咳払い。衣擦れ。小さな笑い声。

椅子の軋む音が、あちこちで一度に重なる。

その音がひとつの大きなうねりとなって、幕の布地をこちらへ膨らませていた。


澪は、その手に引かれて幕の外へ出る。

目の前の客席は、もう空っぽではなかった。

前の日、ぽつぽつと間が空いていた席が、今日はびっしりと埋まっている。

暗がりの奥の奥まで、いくつもの、いくつもの頭が並んでこちらを見つめていた。

顔は見えない。

ひとつひとつの顔は暗がりに沈み、ただ、無数の眼球の向きだけが、澪のいる真ん中へ一斉に注がれていた。


そのとき。


白い光が、一度に澪の頭上から降ってきた。

前の日と同じ眩しさ。目の奥まで真っ白になる。

けれど前の日と違って、その光の外側には、満席の客席のうねりが待ち構えていた。


澪は、その真ん中へと連れていかれる。

板の上を歩く。

白い靴の裏が、硬い板を打つ。

その音が天井で跳ね返り、少し遅れて戻ってきた。

椅子がひとつ、置いてある。

「座って」と言われて、澪は腰を下ろした。

白い靴のつま先が、板の上に揃う。


息を吸い込む道が、喉の奥で狭くなる。

前の日よりも、もっと狭い。

澪の肩は緩まない。

前の日に強張ってしまった肩が、今日はそのまま、さらに硬くなっていた。

幕の外に出てから、その肩は一度も下がっていない。


箱を膝にのせる。

素足ではない足の裏が、硬い白い靴の中で行き場を失っていた。

糸を一本ずつ、指の腹で確かめようとする。

いつもの暮れ方のベンチと同じように。

けれど、指の腹に当たる糸が、いつもより遠くに感じられた。


澪は、ひとつ払う。


その音は鳴った。

鳴って、高い天井へのぼっていく。

前の日のリハーサルでは、鳴った音が周囲の雑音へ紛れていった。

けれど今日は、紛れるはずの雑音がない。

満ちた客席は、水を打ったように静かだった。

澪の放ったひとつの音だけが、誰もいない広大な空間へぽつんと置かれ、取り残される。


その静けさが、膜を外から圧迫してくる。

無数のノイズよりも、この静けさのほうが、ずっと強く膜を押し潰そうとしていた。


澪は、次の糸に指を置く。

二つめの音が和音になろうとして――けれど指の腹が、糸を掴みきれない。

押さえたはずの糸が、指の下で半分だけ鳴る。

音は膨らまず、細くやせ細っていった。

鳴りかけて、消えていく。


澪は次を押さえようとする。

左手が糸の上を移ろうとした、その途中で。

左手が、止まった。


糸の上で、指が動かない。

上へ上げようとしても、下へ下ろそうとしても、その手はそこから動かない。


前に。

「腕を上げて」と言われて、澪の腕は上がった。

「下ろして」と言われて、下がった。

誰かに命じられれば、澪の手はいつだって動いたのだ。

けれどいま、ここでは誰も澪の手に指示を出さない。

上げろとも、下ろせとも、誰も言わない。

誰にも言われない手が、自分では動くことができずに、糸の上で凍りついていた。


止まった手の中で、前の日のあの震えだけが、まだ小さく続いていた。

手首から、指の付け根へ。

下から、上へ。

細かい震えが、硬直した手の中を這いのぼっていく。

動かないのに、震えている。


とん、と拍を数えようとする。

前の日、とん、とんと二拍待った、あの拍。

いつもその拍の上へ、次の音を下ろしてきた。

いま、一拍目の「とん」がどこにも降りてこない。

二拍目が来ない。

拍が、来ない。

拍のない静寂の中で、澪の手は止まったまま、鳴らない糸を上から押しつけていた。


そのとき。


暗がりの奥のほうで、板がことりと軋んだ。

客席の椅子のひとつが、誰かの体重で小さく鳴った音。

それだけだった。

満席の客席は、ふたたび静まり返る。


けれど、その「ことり」というかすかな音を、澪の耳は逃さず拾い上げていた。


板がことりと軋む、あの座り方。

いつかの暮れ方のベンチで、澪の隣の端にあった、あの音。

名前はつかない。

ただ、その座り方の音だけが、破れた膜の隙間から、澪の耳の端にぽつんと残る。


残ったまま、澪はそれが何なのかを考えない。

止まった手も、来ない拍も、残ったひとつの音も、すべて澪の中でどこにも繋がらずに散らばっている。


膜は、もう薄くはなかった。

薄いままそこにあったものが、いま、完全に破れていた。

破れた穴から、白い光と静けさとが、一度に澪の中へ雪崩れ込んでくる。


澪の手は、動かない。

鳴らない糸を押さえたまま、その手が動くのを待っている周囲の気配を、澪は耳で感じていた。

待っている気配が、膜の破れた穴からまっすぐ澪に届く。

その手が動くのを、待っている。

澪の手は、動かない。


どれほどの時間がそこに流れたのか、澪には分からなかった。

拍がないから、測ることができない。


やがて。


止まった手を膝の上にのせたまま、澪の体が椅子から立ち上がった。


誰にも言われていない。

「立って」とも、「やめて」とも、誰も言わない。

それでも、澪の体は立った。


膝から、箱がずり落ちかける。

澪の両腕が、その箱を胸の前へ、ひとりでに抱え込んだ。


前に、大事な箱を預からせてと言われたとき、ほどけてしまったあの両腕が。

いまは、誰にも言われないのに、箱を離さない。


白い光の中で、澪は体を回す。

満席の客席に背中を向けた。

白い靴の裏が板を打つ。

一度。二度。

その音が、高い天井で跳ね返った。


澪は、白い光の外へ向かって歩く。

歩いた先に、さっき入ってきた薄暗い幕の影があった。

その暗がりが、ぽっかりと口を開けて待っている。


澪は箱を抱えたまま、その幕の影へと歩いていく。

白い光が、背中から離れていった。

周囲の気配が、澪の後ろで動かずに凍りついている。

誰の手も、澪の腕を引かない。


澪は薄暗い幕の影へ、箱を抱えて入っていった。

お読みいただきありがとうございました(*'ω'*)

イメージソング

https://youtu.be/Nk8wPjsRe7U

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