第21話「見て、いない人たち」
その部屋には、まだ何もなかった。
ただ、スマートフォンの薄い板の中に、あの子の止まった手だけが取り残されている。
施設を出て、ひと月。
十九になったばかりの青年が、自分の名義で借りた六畳間だった。
床には安物の小さな机がひとつ。
万年床の布団は畳みもせず、壁際に寄せたままだ。
冷蔵庫を買う余裕はなく、流しの脇にコンビニのビニール袋が二つ、しぼんだまま転がっている。
夜の十一時を回っていた。
面接から帰り、ネクタイを緩めてそのまま壁に背中を預けている。
リクルートスーツの上着だけを脱ぎ捨てた畳の先で、黒い革靴が玄関の内側へ力なく倒れていた。歩きすぎて擦り減った、今日一日の靴。
今日で、四社めの面接だった。
どこも、たぶん駄目だ。改札を抜ける頃にはもう分かっていた。
志望動機を口にしている最中、面接官の視線がすっと手元の履歴書へ落ちていく。
学歴と保護者欄をなぞる、あの冷たい目の下がり方を、この一ヶ月でもう四度も見ていた。
手の中で、スマートフォンを固く握りしめている。
部屋の蛍光灯を点ける気力すら起きず、液晶画面の青白い明かりだけが、暗い天井をぼんやりと四角く照らし出していた。
求人サイトを開いたまま、指先でスクロールを繰り返す。
文字が上から下へと滑り落ちていく。
どれも、判で押したような文句ばかりだ。
未経験、歓迎。
やる気のある方、募集。
そのやる気という実体のないものを、どこで、どうやって差し出せば大人たちは納得するのか。誰も教えてはくれない。
施設を巣立つ日、担当の職員は「いつでも顔を見せにおいで」と笑って送り出してくれた。
けれど、「いつでも」という親切な言葉は、「いま、助けてほしい瞬間」には使えないのだと、部屋にひとりきりになって初めて思い知る。
誰からの指示もなく、自分の意志で朝に目を覚まし、自分の足で面接へ向かい、自分で「駄目だった」と飲み込んで部屋へ帰ってくる。
その、出口のない乾いた繰り返しの真ん中に、いま、立ち尽くしている。
ふと、あの公園のベンチが脳裏をよぎった。
冬の夕暮れ、青い時間の短い光。
ベンチの反対側の端に、いつも小さく丸まっていたあの子。
傷だらけの古いギターを膝にのせ、誰に聴かせるでもなく、ただ細い糸を払っていた姿。
名前も、生い立ちも知らない。
ただ、あの子の放つ音の純度だけを、耳の奥が鮮明に覚えていた。
ひとつ払って、その音が世界の底に消え去るまでをじっと待つ、あの独特の間合い。
上手いとか下手とか、そんな安易な尺度を寄せつけない、祈りのような響きだった。
仕事が決まりそうだと漏らしたあの日、あの子は何も言わずに糸を払った。
冷え切った板を渡ってきたその音の重みのおかげで、なぜだかあの夜は、歩く足取りが少しだけ軽かったのだ。
結局、あの採用通知は届かなかった。
その不様さも、あの子には打ち明けていない。
無意識の親指が、動画共有アプリを開いていた。
眠りにつく前、何も考えずに頭を麻痺させるための明かり代わりのタイムライン。
おすすめのサムネイルを漫然とスクロールしていく。
その途中で、指が凍りついた。
小さな長方形の画面の中に、白いワンピースを着せられたあの子がいた。
舞台の中央に置かれたパイプ椅子に腰掛け、膝にあの日と同じ古い箱を抱えている。
太く下品な文字で、タイトルが打たれていた。
《孤児院の天才少女、まさかの大失敗》
その言葉を、あの子はおそらく知りもしない。
誰かが閲覧数を稼ぐために、外側から勝手に貼りつけたラベルだ。
あの子が自分から、そんな陳腐な呼び名を名乗るはずがない。
震える指が、画面をタップする。
刺すような白い照明の中で、あの子が座っている。
最初の一音が、微かに鳴った。
あの、公園の音だ。間違いなく、公園のベンチで自分を救ってくれた、あの子の音だった。
二音めで、響きがやせ細る。
三音めは、二度とやってこない。
白い光の檻の中で、あの子の左手が弦の上に張りついたまま止まっていた。
上へ逃げることも、下へ下ろすこともできず、ただ硬直している。
その左手を、自分は知っていた。
あの日、あのホールで。
そうだ、と青年は暗闇の中で天井を見上げた。
自分はあの日、あの会場の片隅にいたのだ。
あの子が大きな場所で弾かされると風の噂で耳にして、定職もない身の居心地の悪さを抱えたまま、入場無料だった催しの客席の最後列、いちばん端の席に身を潜めていた。
いつもの公園の癖で腰を下ろした瞬間、座席の木板がことりと小さく軋んだ。
満席の張り詰めた静寂の中で、その生活音がやけに高く響いてしまい、思わず身を縮めたのだ。
舞台の上のあの子が、その「ことり」という音のほうへ、微かに耳を傾けたように見えた。
あのときは、自意識過剰な気のせいだと思った。何百人もいるホールの最後列の軋みなど、届くはずがないと。
けれどいま、画面の中で立ち往生するあの子の姿を見ていると、あの軋みが、あの絶望的な光の中で唯一の逃げ道として届いてしまっていたのではないかと、胸が痛む。
画面を下へと引き上げる。
タイトルの下に、匿名のアカウントから吐き出されたコメントが濁流となって並んでいた。
《親のしつけがどうこうって年でもないだろ》
《泣きもしないで固まってるの逆に気味悪い》
《やらせ乙。最初から弾けないのを美談にしてただけ》
《施設育ちってだけでチヤホヤするからこうなる》
本名も、顔写真も、どこにもない。
記号のようなアカウントから吐き出された無責任な言葉が、上から下へと果てしなく流れていた。
誰か特定の人間が恨みを持って書いたのではない。通りすがりの群衆が、電車を待つあいだに指先でひとつずつ汚物を投げつけ、そのまま次の面白い動画へと去っていったのだ。
その言葉のすべてが、あの夕暮れの音を一度も聴いたことのない者たちの雑音だと、すぐに分かった。
冬の寒空の下、あの子が凍える指先で手繰り寄せていたあの本物の響きを一度でも知っていれば、こんな薄っぺらな言葉を投げつけられるはずがない。
胃の奥から、苦い熱がせり上がってくる。
あの子への同情なのか、自分自身の惨めさへの怒りなのかは判別がつかない。
履歴書の経歴欄だけを上から見下ろし、目も合わさずに落としていく面接官たちの無機質な顔と、このコメント欄の群衆が、寸分違わず同じ匂いを放っていた。
何も見ようとしない者たちが、すべてを見透かしたような顔をして、他人の人生に烙印を押していく。
画面の最下部に、白いコメント入力欄があった。
指先が吸い寄せられるように触れる。
文字を叩きはじめる。
「この子の音を、直接聴いたこともないくせに」
途中で、フリック入力の手が止まった。
名前も持たない、社会から弾き出されかけている自分の言葉が、この巨大な濁流のどこに届くというのか。
履歴書ひとつ通らない、何者でもない十九歳の指が打った独り言が、この暴力的な流れを押し返せるとは、どうしても思えなかった。
打ち込んだ文字列を、バックスペースで一文字ずつ消していく。
文字が消えるたび、自分の存在そのものが削り取られていくようだった。
入力欄が、ふたたび無機質な白に戻る。
スマートフォンの画面を伏せ、畳の上に放り投げた。
部屋が、完全な闇へと沈む。
何もできなかった――その救いようのない無力感だけが、何もない六畳間に重たく澱んでいた。
二日、やり場のない時間をやり過ごす。
三日めの、面接の帰り道だった。
足が、アパートへ向かう駅の改札ではなく、あの公園のほうへと向かっていた。
面接の手応えは、やはり無言の不採用を告げていた。
なぜ公園へ向かうのか、自分でもうまく説明できない。
ただ、あの夕暮れの澄んだひと音をもう一度聴かなければ、自分の中の壊れかけた芯が、完全に折れてしまうような気がしたのだ。
青い時間は、相変わらず短い。
ベンチは、いつもの木立のそばにあった。
あの子も、そこに座っていた。
けれど。
あの子の膝の上で、黒いハードケースの蓋が、ゆっくりと閉められていくところだった。
弾き終えた余韻ではない。これから弾こうとする準備でもない。
ただ布からギターを収め、蓋を下ろし、金属の留め具をパチン、パチンと静かに噛み合わせた。
それきり。
あの子の両手は、硬く閉ざされたケースの上に重ねられたまま、微動だにしなかった。
弦を払う気配など、指先のどこにも残っていない。
街灯の薄暗いふちで、青年は足を止めた。
かけるべき言葉を、胸の奥で必死に探す。
「大丈夫だったか」とも、「気にしなくていい」とも、「また聴かせてくれ」とも言えない。
どんな励ましも、傷口を塞ぐように縮こまるあの子の前では、軽薄で無責任な暴力にしかならない。
何ひとつ成し遂げられていない自分には、あの子の沈黙を破る権利など、ひとかけらもなかった。
それでも、靴底が地面を踏み出した。
あの子の座るベンチの、少し離れた反対側の端へ。
何も言わず、ただ静かに腰を下ろす。
いつもの癖で、木板がことりと低く軋んだ。
あの子は、こちらを見ようとしない。
光を閉ざしたケースの上に手を置いたまま、俯いていた。
二人のあいだの冷え切った板の上を、今度は、どんな音も渡ってこない。
青い時間が、短い呼吸のように暮れていく。
膝の上の閉じられた箱が、夕闇の底で、ひっそりとその輪郭を失っていった。
読んでくださって、ありがとうございました。





