第22話「開いた箱」
箱は、膝の上で閉じたままだった。
あれから、澪は一度も糸を払っていない。
「弾いて、いいのよ」と言った、あのやわらかい声も、あれから聞こえてこない。
朝、目が覚めると、まず部屋の隅のその箱を見る。
薄い朝の光が窓から差し込み、床をなぞって、箱の丸い肩のところで止まっていた。
茶色い、古い箱。
誰かが傷を一本ずつなぞって磨いた箱。
澪が公園のベンチで拾って、耳であるべき場所に音を合わせた箱。
まだ、鳴る箱だ。
それは分かっている。
毎朝、そう思う。
思うだけで、澪は布団の中から手を伸ばさない。
蓋を開ければ、糸はあるべき場所に揃っているはずだ。
指を当てれば、鳴る。
分かっているのに、澪の手は蓋の金具の手前で止まってしまうのだ。
あの日から。
大きな、明るい場所で。
たくさんの視線の前で。
二つめの音のあとがやってこなかった、あの日から。
澪の左手は、糸の上で止まったきり動かなくなっていた。
あのときの、止まってしまった感覚が、いまも指の奥に残っている。
あたたかくも冷たくもない、奇妙な痺れ。
蓋を開けて、指を当てて――もし、またあそこで止まってしまったら。
そう思うと、金具の冷たさに触れる手前で、指先が引いてしまう。
ひなたが、部屋にやってくる。
空き缶を両手に持って。
いつもなら、澪が糸を払うと、ひなたがその缶をコツ、コツと叩いて拍子をつけた。
澪の音の後ろから、ひなたの缶が少し遅れてついてくる。
ずれて、また揃って、またずれる。
それでも、ひなたは嬉しそうに缶を鳴らしていた。
二人だけの、小さな音遊び。
ひなたは缶を持ったまま、澪の膝の上の箱を見つめる。
それから、澪の顔を見る。
何も言わない。
ただ、待っている。
澪が、蓋を開けるのを。
澪には、開けられなかった。
ひなたはしばらく待って、やがて缶を床にそっと置き、部屋を出ていった。
その置いていかれた缶が、部屋の隅でころんと倒れる音を、澪は聴いていた。
その音の転がり方まで、澪の耳は拾ってしまう。
拾い上げても、指は動かなかった。
夕方。
おやつのあと、青い時間に、澪の足はそれでも公園のほうへ向いていた。
弾くためではない。箱は部屋に置いてきた。
ただ、あの青い時間の短い光の中にいれば、止まってしまった手のことを少しだけ忘れられる気がしたのだ。
冬の夕暮れは早い。
空の端のほうが、もう青から濃い藍へと沈みかけている。
ベンチは、いつもの場所にあった。
澪は、端に腰を下ろす。
膝には何もない。
両手を膝の上で重ねたままでいる。
何も抱えていない膝は、妙に軽くて落ち着かなかった。
街灯が、ひとつ点いた。
白い光が、地面に丸く落ちる。
その光のふちに、人が立っていた。
いつもの人だった。
音のするほうを聴いていた人。
近づきも、遠ざかりもしなかった人。
けれど、今日は違っていた。
その人が、街灯の光の中へ一歩踏み込んできたのだ。
片手に、白いレジ袋は提げていない。
代わりに、黒く細長いケースを持っていた。
澪の箱とは違う。あの茶色い傷だらけの箱とは。
黒い革のケースだった。
角が少し擦れて、白く剥げている。
二つの金属の留め具は、磨かれてもいないのに、鈍い光を放っていた。
長い年月、誰かの手がそこに触れ続けてきたのだと分かる光り方だった。
その人は、澪の隣の少し離れた端に、黙って腰を下ろした。
板が、ことりと鳴る。
黒いケースを膝の上にのせた。
二人のあいだに、その箱が置かれる。
澪は、見ていた。
その人の手を。
金具に、指がかかる。
そこで止まった。
長く、止まっていた。
開けるというより、開けていいものかどうかを、指先が確かめているようだった。
澪には、その躊躇が分かった。
自分の、蓋の金具の手前で引っ込めてしまう手と、同じ止まり方だった。
やがて。
パチリと、ひとつめの金具が外れた。
パチリと、もうひとつ。
その人は、蓋を開けた。
開けるとき、その人が小さく吐き出した息が、白く宙に浮かぶ。
中に、ギターがあった。
澪の拾った廃品の箱とは違う。
ちゃんと弾き込まれてきた楽器だと、澪の目にはすぐに分かった。
木板の色が深い。
角の丸みが手でなでられ、滑らかにすり減っている。
胴の真ん中、糸の下のあたりが、うっすらと白く擦り切れていた。
何度も、何度も、そこを腕が擦ってきた痕跡だ。
弾き続けてきた年月のぶんだけの白さだった。
けれど。
糸は六本とも緩み、垂れ下がっていた。
張られてはいない。
長いあいだ、鳴らされていない糸だった。
その人が、ギターの胴に指を置いた。
節くれだった、太い指。
澪の知っている、糸を弾く指とはまるで違う手だった。
爪が短く割れ、指の腹は硬く分厚くなっている。
何か重いものを運んだり、冷たい水で何かを洗い続けたりしてきた手だと、澪にもなんとなく分かった。
その指先が、緩んだ糸を上から下へ、そっとなでた。
音は鳴らない。
張られていない糸は、ただ指の下で頼りなくしなるだけだった。
「これで」
と、その人が言った。
低く、かすれた声だった。
「飯を、食おうとしていた」
澪は、その人の横顔を見つめた。
「若いころだ」
それきり、しばらくその人は何も言わなかった。
緩んだ糸の上を、指がもう一度なでる。
「続けるには、金がいる」
「――ある年で、それが無理になった」
言葉は、そこで切れた。
その先を、男は語らなかった。
どうして無理になったのか。どんな年に何があったのか。
澪は尋ねなかった。
あの公園の夜、なぜ街灯のふちに立っていたのかを尋ねなかったのと同じように。
ただ、澪は思った。
この人も、止まってしまった手を持っているのだ、と。
自分の左手が糸の上で動かなくなったように。
この人の手も、いつかこの糸の上で止まり、それきり動けなくなってしまったのだ。
止まった手がどんなふうにして動かなくなったのか、男は言わなかったし、澪も聞かなかった。
けれど、その手はいま、ここにある。澪の隣に。
澪は、黒いケースの中の緩んだ糸を見た。
鳴らない糸だった。
もうずっと、鳴らされていない糸。
それでも――その人は、この箱を捨てていなかった。
傷んだ角が白く剥げるほど、長いあいだ手の届く場所に置き、金具を磨きもせず、それでも指先だけは何度もそこに触れてきたのだ。
捨てられた箱ではなかった。
澪の拾った、あの箱とは正反対だった。
あの箱は誰かに要らないと捨てられ、雨も夜露もぜんぶ吸い込んで、それでも鳴った。
この黒い箱は、誰にも捨てられずに、ただ開けられずにいたのだ。
鳴らせる人間が、鳴らすのをやめてしまった箱。
その人は、蓋を閉めた。
パチリと、金具をひとつ。
パチリと、もうひとつ。
黒い箱は、ふたたび閉ざされた。
立ち上がる。
黒いケースを提げて。
澪の顔は見なかった。
「弾け」とも、「また鳴らせ」とも、その人は言わない。
ただ、やって来たときのように、黙って街灯の光から出ていく。
その背中を、澪は見つめていた。
黒いケースが青い時間の中で揺れながら遠ざかっていく。
やがて、藍色の暗がりに溶けて見えなくなった。
開けられなかった箱。
それでも、捨てられなかった箱。
澪の胸の奥の、止まってしまっていた場所に、その二つの輪郭が静かに並んで残った。
そうだったの。
と、澪は声にならない声で呟いていた。
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