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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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第23話「まだ、鳴る」

その夜、澪はなかなか眠りにつけなかった。


まぶたの裏に、あの黒い革のケースが浮かぶ。

開けられなかった箱。

それでも、捨てられなかった箱。


もう鳴らさないのなら、どうして捨てずに手元へ置いていたのだろう。

答えは分からないまま、その小さな問いだけが、冷え切った胸の奥でぽつりと灯り続けていた。


朝が来る。

窓の外の闇がほどけ、薄い青が静かに部屋を満たしていく。

澪は布団から抜け出した。

部屋の隅に置かれた茶色い箱の前に、膝を折って正座する。


閉ざされた蓋。

誰かが丁寧に磨いた、無数の傷の跡。

指の腹でなぞりたいと思うのに、伸ばした手が金具の冷たさの手前でぴたりと止まる。

あの、暴力的な光に晒された大ホールで、指先が凍りついて動かなくなったあの感触が、いまも手首の奥にこびりついていた。


――けれど。

と、澪は思い返す。

あの黒いケースに触れていた、あの人の節くれだった指も、一度止まってしまった手だった。

止まった手のままで、あの人は鳴らない糸をなでていたのだ。

無理に鳴らそうとはしなかった。ただ、生きてきた時間を確かめるように、そっとなでていた。


澪は息を吸い、目を開けた。

箱の金具に、人差し指をかける。

指先に走る金属の冷たさ。

けれど、今度は手を引っ込めなかった。


パチリと、乾いた音を立てて金具が外れる。

その小さな音に、澪の心臓がかすかに跳ねた。

両手で、ゆっくりと蓋を持ち上げる。

中に、古い木の箱が横たわっていた。

澪が耳で手繰り寄せ、正しく調律した六本の糸が、あるべき場所で静かに澪を待っている。


弾くのではない。

澪は、心の中で自分にそっと言い聞かせた。

弾こうと構えれば、またあの日のように喉が塞がり、指が止まってしまうかもしれない。

だから、弾くのではないのだ。

ただ、なでるだけ。

あの人が、鳴らない糸に触れていたように。


澪は右手の指の腹を、いちばん上の太い糸にそっと乗せた。

触れるだけ。

爪で払うつもりなど毛頭なかった。


けれど――乗せた指の下で、糸は死んでいなかった。

あの人の緩んで垂れ下がっていた糸とは違う。

ぴんと張り詰められた細い鉄の線が、確かな弾力を持って、澪の指先をぐっと押し返してくる。

生きている、という手応え。

その張力の確かさに触れた瞬間、澪の指先が、身体の奥底にある記憶に導かれるように微かに跳ねた。

自分でも意識しないうちに。


ぽん、と。


音が、鳴った。

夜明け前の薄暗い六畳間に、ひと粒の澄んだ響きがこぼれ落ちる。


澪は、はっと息を呑んだ。

その音は、止まらなかった。

二音めが途絶えて凍りついた、あの日とはまるで違っていた。

いま鳴り響いた音は、たったひとつきりで、客席の誰にも待たれていない音だった。

上手いも下手もない。

見世物として誰かの耳に差し出すための音でもない。

ただ、世界に向かって生まれた音。


そのひと音が薄暗い部屋を滑らかに渡り、やわらかくほどけて消えていく。

壁も、天井も、その音を拒絶したりはしなかった。

最後の余韻が空気に溶けきるまで、澪はじっと耳を澄ませていた。

音が消えたあとの静寂の中に、あの息苦しい強張りはどこにもない。

硬直していた手首の痺れも、嘘のように消え去っていた。


澪は、もう一度糸に指を添える。


ぽん、と。

ふたたび、澄んだ音が鳴った。


まだ、鳴る。

この箱は、まだ呼吸をしている。


あの人の黒い箱は、鳴らなかった。

鳴らせるはずの人間が、生きるために鳴らすことを諦めてしまった箱だった。

けれど、澪のこの古い箱は。

一度はゴミ捨て場に捨てられ、雨や夜露を吸いながらも、いま、指の下で誇らしげに張り詰めている。

触れれば、ちゃんと応えて鳴る。


それが嬉しいことなのか、それともまだ恐ろしいことなのか、澪にはうまく測れない。

ただ、昨夜から胸の奥で小さく燻っていた火が、いま、確かな輪郭を持って温かく燃えはじめていた。


分からないままでいいと、澪は三つめの糸にそっと指を滑らせた。


ぽん、と。

あふれ出た音が、薄暗い部屋の隅をふたたび渡っていく。

こぼれても、こぼれても、途切れることなく次の音が訪れた。

何かに怯えることもなく、あるべき場所へ吸い寄せられるように。


冷たい畳の上で、澪の素足の裏がしっかりと床を踏みしめていた。

大ホールの舞台の上で宙に浮き、どこにも届かなかった足先が、いまは大地に根を張っている。

窓から差し込む朝の薄い青が、床を滑り、澪の白いつま先を静かに包み込んでいた。

お読みいただきありがとうございました(*'ω'*)


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