第24話「一緒なら」
それから、澪の朝の風景は少しずつ輪郭を変えていった。
目が覚めると、まず部屋の隅に置かれた箱を開ける。
もう毛布をかぶせて隠すこともしない。
金具を外して蓋を持ち上げ、静かに横たわる糸へ指を添える。
ぽん、とひとつ。
その確かな張りと響きを確かめてから、澪の一日がはじまるのだ。
施設のみんなが起きだす時間帯だった。
「うるさい」と怒鳴り込んでくる大人は、もうどこにもいない。
曲を弾くというほどのことではなかった。まだ、ひとつかふたつ。
指をのせて、そっと払う。消え入るまでの余韻に耳を澄ませる。それを繰り返すだけだ。
けれど、そのひと粒の音が、いまは恐ろしくなかった。
途中で止まってしまってもいいと、思えるようになっていた。
止まったら、また最初から指を乗せ直せばいい。
あの公園の男が、鳴らない糸を慈しむように何度もなでていたように。
朝のその音をどこかで聞きつけて、とん、とんと廊下を駆けてくる小さな足音が近づいてくる。
ひなただった。
両手で大切そうに、洗った空き缶を抱えている。
いつのまにか、それがひなたの朝の役割になっていた。
ひなたは澪のすぐ隣にぺたんと座り込む。
缶を両手で構え、澪が糸を爪弾く瞬間をじっと待つ。
澪が、ぽんと鳴らす。
その丸い音の背中を追うように、こつ、とひなたのスチール缶が乾いた音を立てる。
ずれる。
また、揃う。
また、ずれる。
どれほど拍が乱れても、ひなたは嬉しそうに缶の底を叩き続けた。
澪のギターは、低くて丸い。
ひなたの空き缶は、高く澄んだ金属の乾いた響き。
その二つの異なる音の粒が、薄暗い部屋の隅でぶつかり合い、重なり、ほどけていく。
「もう一回」
と、ひなたが言う。
ひとつ鳴らし終えると、間髪をいれずにせがむ。
「もう一回」
その「もう一回」という声を、澪はいつも受け止めていた。
誰かに次の音を求められることが、澪にはまだ少し不思議だった。
自分の指先からこぼれ落ちる音を、誰かがもう一度聴きたいと願ってくれる。
その小さく温かな不思議を確かめるように、澪はまた糸の上へ指を落とす。
ぽん、と鳴る。
こつ、と缶が続く。
ある冬の朝のことだった。
澪の音の後ろで、缶の甲高い音に混じって、かすかな吐息が聞こえてきた。
ふん、ふん、と。
ひなたが唇を閉じたまま、喉を小さく震わせて歌っていた。
澪の鳴らしたその音の輪郭を、喉の奥でなぞるように。
ふん、ふん、と。高く、低く。
澪の指が上の太い糸を弾けば、ひなたの声も低く沈む。
細い糸へ指が滑れば、声もふわりと高く昇る。
澪の放つ音の波を、ひなたのハミングが一生懸命に追いかけていた。
澪は、ふと指を止めた。
ひなたの小さな歌声も、ぴたりと止まる。
二人は顔を見合わせることもなく、しばらく黙りこくっていた。
それから、澪はもう一度、糸にそっと指を置いた。
今度は、いつもよりずっとゆっくりと。
ひなたが追いかけやすいように。
――追いかけやすいように。
その考えが胸をかすめたとき、澪は自分自身に微かな驚きを覚えていた。
自分の音を、誰かが追いかけてくる。
その誰かの歩幅に合わせて、ゆっくりと音を置いていく。
誰かのために自分の音を加減するなどということを、自分がする日が来るとは思いもしなかった。
ぽん、とひとつ。
ふん、とひなたの声が乗る。
ぽん、ともうひとつ。
ふん、とまた重なる。
澪のギターとひなたの声が、こつ、こつという缶の拍子をあいだに挟んで、薄暗い六畳間の隅で小さく寄り添い合っていく。
上手くなんてなかった。
ひなたの声はときどき音程を外す。
澪の指先も、ときどきフレットに触れて音を濁らせる。
それでも、二人の紡ぐ音は止まらなかった。
ひとつが歪んでも、次の音がやってくる。
淀むことなく、次の響きが生まれてくる。
歌い終えて、ひなたがふうと白い息を吐き出した。
寒さの残る部屋で、頬だけがぽっと赤らんでいる。
瞳がきらきらと光っていた。
「みんなにも」
と、ひなたが無邪気に言った。
「きかせようよ」
澪の指先が、凍りついたように止まった。
みんな。
その言葉が落ちた瞬間、澪の視界の奥で、あの忌まわしい白い光が爆発するように蘇る。
暗闇の中から自分を射抜く無数の冷たい眼球。
何百人もの静寂に喉を締め上げられ、動かなくなってしまった左手。
喉の奥が、きゅっと冷たく塞がっていく。
みんなの前は、怖い。
一度、完全に止まってしまったのだ。
大勢の目の前で動かなくなり、その無様な指先を、冷たいレンズや大人たちの目に晒し続けた。
あんな場所には、もう二度と立ちたくない。
澪は深くうつむいた。
膝の上の箱を、両腕でぎゅっと抱え込む。
かつて大人たちに取り上げられまいと必死に抵抗したときの、あの強張りで。
ひなたは、澪の強張った横顔をじっと覗き込んだ。
それから、小さな手のひらを、澪のパジャマの袖口へそっと添える。
「わたしも、いるよ」
と、ひなたが静かに言った。
「いっしょに、うたうから」
澪は、ゆっくりと顔を上げた。
ひなたの丸い大きな瞳が、すぐ目の前にあった。
怖がらなくていいよ、とその瞳がまっすぐに告げている。
わたしが隣にいるから、と。
みんなの前は、怖い。その恐怖が消えたわけではない。
一度麻痺してしまった指の記憶は、いまも手首の奥深くに重たく沈んでいる。
けれど。
と、澪は思った。
ひなたと一緒なら。
この、こつ、こつと拙く缶を叩くリズムがすぐ隣にあるなら。
ふん、ふんと不器用に自分の音を追いかけてくれる小さな声がそばにあるなら。
もしかしたら。
澪は言葉を返さなかった。
うなずきもしない。
ただ、もう一度、箱の糸の上に指をそっと置いた。
ぽん、と音が鳴り響く。
ふん、とひなたの声が、待っていましたとばかりに嬉しそうに後を追う。
薄暗い部屋の隅へ、窓の隙間から朝の薄い青が静かに差し込み、寄り添い合う二人の小さな影をあたたかく照らし出していた。
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