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まだ、鳴るなら ~ギターを弾けなくなった少女と、音楽を手放した男~  作者: K3/KASANE


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第25話「椅子を、ひとつ」

その週の終わり。

いつもと向きの違う椅子が、ひとつ置かれることになる。


あおば園には、月に一度の集まりがあった。

夕ごはんのあとの食堂で、その月に誕生日を迎えた子をみんなで祝う。

ケーキと呼べるようなものは出ない。

いつもより少し甘い蒸しパンが、ひとりひとつ配られるだけだ。

それでも、小さい子たちは大喜びする。

覚えたての歌を歌う子もいた。

音程を間違えながら、途中で歌詞を忘れて笑われながら。

それでも、みんなが手を叩く。

そういう集まりだった。


澪は、いつもいちばん後ろにいた。

壁に背中をぴったりつけて、手を叩く役。

前に出たことなど、一度もなかった。

歌も歌わない。

ほかの子の歌を聴いて、終わるとみんなと一緒に手を叩く。

それでよかった。

それが、いちばん楽だった。

後ろにいれば、誰の目も澪を見ない。

見られなければ、手は止まらない。


その週のはじめ、廊下の壁に紙が貼ってあった。

小さい子にも読めるように、ひらがなの多い字で。


<こんどの あつまりで、なにか やりたい人は、しょくいんまで>


と書いてある。

その紙の前に、ひなたが立っていた。

背伸びをして、指で文字をひとつずつなぞっている。

澪が通りかかると、ひなたはくるっと振り返った。

目を丸く見開いている。何かいいことを思いついたときの顔だった。


「みおちゃん」

と、ひなたが言った。

「これ、やろうよ」

紙を指さす。

「みおちゃんの、箱」


澪の足が止まった。

箱。

みんなの前で。

その言葉が、澪の中のあの日をふたたび連れてくる。

白い光。

無数の視線。

糸の上で凍りついた、左手。

思い出すだけで、澪の指の奥が冷たく強張る。

澪は、何も言えなかった。


ひなたはその顔を見上げて、少し困ったように眉を下げた。

それでも、手は離さない。

澪の袖口をきゅっとつまんだまま。


「いっしょに、うたうから」

と、ひなたが言った。

「みおちゃんが、箱。わたしが、缶」

缶を叩く真似をする。

こつ、こつ、と、空の手で。


澪はうつむいた。

「うん」とも、「嫌だ」とも言えないまま。

ひなたの小さな手のぬくもりだけが、袖に残っていた。


集まりの前日。

澪は食堂の前を通りかかった。

中で、あの人が椅子を並べている。

用務員の、あの人だった。

節くれだった太い指で、椅子をひとつずつ運んでは向きを揃えていく。

みんなが座る椅子だ。


澪は、その手を知っていた。

公園の街灯の下で、鳴らない糸を上から下へとなでていた、あの手。

澪は戸口で足を止めた。

入ろうかどうしようか迷って、結局入れずに立ち尽くす。


あの人は、澪のほうを見ようとはしなかった。

ただ、並べた椅子のいちばん前、みんなの席から少し離れた場所に、もうひとつ椅子を運んできて置いた。

ほかの椅子とは、向きが違っていた。

みんなのほうを向いた椅子。

ひとりだけ、みんなと向かい合うための椅子だった。


あの人は、その椅子の脚のがたつきを手で確かめた。

それから、床へとんと静かに下ろす。

何も言わずに、食堂を出ていった。

澪の横を通り過ぎるとき、目も合わせない。

「弾け」とも、「出てみろ」とも言わなかった。


ただ、椅子がひとつ。

みんなの前に残された。


誰のための椅子なのか、あの人は言わなかった。

でも、澪には分かっていた。

その椅子は、後ろの壁際ではない。

手を叩く役のための場所ではなかった。

みんなに見られる場所に、それはあった。

止まってしまった手が、また止まるかもしれない場所。


澪は、その椅子を長いあいだ見つめていた。

怖かった。

――けれど。

と、澪は思う。

あの人は、あの止まってしまった手で、この椅子をひとつ置いたのだ。


澪の後ろから、とん、とんと足音がした。

ひなただった。

空き缶を両手に抱えて、澪の隣へとやってくる。

同じように、その椅子を見つめた。


「みおちゃんの、椅子だ」

と、ひなたが言った。嬉しそうに。


澪は答えなかった。

ただ、袖の中で缶を構える真似をしているひなたの手を見て、それからまた、あのぽつんと置かれた椅子を見る。


みんなに見られる場所の、椅子。

人前で、もう一度。


その椅子から、澪は目をそらさなかった。

読んでくださって、ありがとうございます。

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