第26話「紙を、ひとつ」
大人にも、自分で決めなければならない日が来ます。
その男は、あおば園の用務員だった。
名は、藤沢蓮司という。
四十を少し過ぎている。
朝の掃除がひととおり終わったあと、道具小屋の脇にある小さな用務員室で、スチール机に向かっていた。
窓は北向きで、冬の朝でも射しこむ光は薄い。
机の上に、一枚の紙が置かれている。
園長から手渡された、契約更新の確認書だった。
半年ごとに、こういう紙が回ってくる。
「引き続き、お願いできますか」という定型の文章と、丸をつけるための四角い枠が二つ。
継続する。
しない。
どちらかに印をつけて、月末までに事務室へ出す。
それだけの、簡素な紙切れだった。
蓮司は、一本の油性ペンを手に取る。
荒れて節くれだった指の太さのぶんだけ、ペン軸がひどく頼りなく見えた。
これまで、この手の紙に迷いを持ったことなど一度もない。
一つの町、一つの職場に、そう長く留まることはなかった。
二年、長くて三年。
その節目が訪れると、枠に丸をつけず、白紙のまま提出する。
白紙で出せば、これ以上は契約を更新しないという無言の合図になる。
それで、すべては終わりだった。
私物は、もともと片手で持てるほどしかない。
あの黒い革のケースと、着替えを詰め込んだボストンバッグがひとつ。
それだけを抱えて次の町へ流れ、次の仕事に就く。
用務員のこともあれば、港の荷揚げや、深夜の工場の下働きのこともあった。
扱う道具はその都度変わっても、去り際の儀式だけはいつも同じだった。
誰かに惜しまれ、引き止められる前に、自分から白紙を差し出して姿を消す。
アパートを引き払う前の晩、蓮司は決まって、部屋の窓を指二本分だけ開けて眠った。
自分がそこに寝起きしていたという体温や生活の匂いを、夜風に少しずつ明け渡し、希釈していくためだ。
翌朝には、誰のものでもない冷え切った空洞だけが残る。
人に深く関わらず、場所に根を下ろさず、跡形もなく消え去る。
それが、音楽を諦めてからの蓮司が自分に課してきた、唯一の生きる作法だった。
この園に来て、すでに三年が過ぎている。
蓮司の流れ歩く時間としては、異例の長さだった。
なぜ、今回だけ期日を過ぎても白紙を出さずにいたのか。
蓮司自身にも、論理立てて説明できることではない。
ただ、道具を片づけ、椅子を並べる手を止められないまま、ここまで引き延ばしてしまった。
ペンの切っ先を二つの四角のあいだに浮かせたまま、蓮司は微動だにしなかった。
用務員室の薄い板戸の向こうから、廊下を駆けていく小さな上履きの音が響く。
施設の子どもたちの、甲高い朝の声。
その騒がしい残響の遠く奥底に、もうひとつ、別の微細な音が混じっている気がした。
木と布が擦れ合うような、細く途切れがちな摩擦音。
空耳かもしれない。
それでも、蓮司の耳はそのかすかな気配を、反射的に拾い上げてしまう。
昔から、そういう耳だった。
誰かが世界に対して立てたささやかな音に、身体が勝手に反応してしまう。
反応してから、いつも決まって苦い後悔を噛みしめるのだ。
蓮司はペンを机に置き、丸椅子から立ち上がった。
部屋を出て、冷え切った渡り廊下を歩く。
先週末の集会のために自分の手で並べ直したパイプ椅子が、食堂の隅に整然と積み上げられていた。
その積み重ねの脇に、一脚だけ、向きの違う木製の椅子が残されている。
みんなの座る場所へ向けて、ぽつんと正面を向けた椅子。
あれは、澪のために用意した場所だった。
まだ、あの子があそこに座って音を奏でたわけではない。
いつか、座るかもしれない。
ただそれだけのために、置かれた椅子だった。
蓮司はその椅子の前で、自然と足を止めた。
四本の脚の接地を、掌で上からそっと確かめる。
がたつきはない。
かつて大ホールの舞台で少女を立ち往生させたような、あの狂った揺らぎは、完璧に殺してあった。
自宅の押し入れの奥に眠る、黒い革のケースを思い出す。
長い年月、開けられることのなかった楽器。
金具は錆びるにまかせているのに、指先だけは何度もあの留め具の冷たさを確かめてきた。
あの眠るケースと、この無人の椅子は、どこか似ていると蓮司は思う。
どちらも、音が立ち上がるための空間を、ただ空けたまま、じっと待ち続けている。
あのケースは、蓮司がたったひとりで蓋を閉じ、放置してきたものだ。
けれど、この椅子は違う。
置いたのは自分だが、そこに腰を下ろすのは自分ではない。
かつて自分の指先が、留め具の上で硬直して動かなくなった日のことを、蓮司は誰にも明かしたことがない。
いまさら同情を引くために語る気も起きない。
ただ、あの子の小さな左手が、大ホールの白い光の下で凍りついたと耳にしたとき、蓮司の指先もまた、同じ痛みをなぞるように冷たくなっていた。
止まってしまった手の絶望なら、蓮司には痛いほど分かる。
分かったところで、不器用な自分に何ができるわけでもない。
技術を教えることも、耳触りのいい言葉で励ますことも、蓮司には許されていない。
ただ、がたつきのない椅子を一脚、静かに置くことしかできなかった。
本館の廊下の奥、事務室の小窓から、園長先生がひょっこり顔を覗かせた。
「藤沢さん、あの用紙、決まりました?」
悪意のない、いつも通りの穏やかな調子だった。
蓮司は、すぐには言葉を返さない。
「今月末までで大丈夫ですからね」
と園長先生は優しく言い添え、書類の山へと視線を戻していった。
蓮司は廊下に立ち尽くし、しばらくその椅子を見つめていた。
その視線の先、開放された食堂の引き戸の隙間から、板張りの床が見える。
まだ、誰も朝食を食べには来ていない。
冬の斜光が、折りたたまれた長机の天板を白く照らし出していた。
その光の落ちる部屋の隅で、澪の小さな背中が動いているのが見えた。
竹箒を両手で握り、無心に床を掃いている。
朝の当番なのだろう。
箒を動かす少女の手が、ふと止まる。
止まっては、躊躇うようにまた動きだす。
蓮司には、その手のぎこちないリズムに見覚えがあった。
楽器を抱え、弦に触れようとしては凍りつく、あの指の逡巡と寸分違わない。
澪は、蓮司の視線に気づいていない。
うつむいたまま、箒の木柄を、見えない弦の並びを確かめるように指先でそっとなぞっている。
その小さな手のひらに、まだ冷たい強張りが微かに残っているのを、蓮司は遠目から見取った。
声をかけることはしない。
かけたところで、どんな言葉も少女の傷を埋めることはできないと知っている。
蓮司はただ無言で佇み、少女の不器用な所作をじっと見つめていた。
澪が、ふたたび小さく箒を滑らせはじめる。
蓮司は足音を立てず、静かにその場をあとにした。
三年前、この園の門をくぐったときも、蓮司はいつもと同じように、適当な頃合いを見計らって立ち去るつもりだった。
子どもたちの顔も名前も、あえて覚えないように壁を作ってきた。
他人に愛着を持てば、立ち去る日の足取りが重くなる。
そうやって自分を守り、他者を遠ざけて生きるのが、蓮司の処世術だった。
けれど、あの冬の夕暮れ、公園の街灯の下で、少女の爪弾くたどたどしい三つの音を聴いてしまったときから、何かが決定的に狂ってしまった。
狂った、というのが、蓮司の実感にいちばん近かった。
覚えるはずのなかった少女の横顔を、蓮司は胸の奥深くに刻みつけてしまったのだ。
蓮司は用務員室に戻り、扉を静かに閉めた。
机の上で、二つの四角い枠がさっきと同じ白さで待っている。
丸椅子に腰を落ち着け、油性ペンを握り直した。
迷いは、すでに消え失せていた。
ただ、ペン先を落とすまでに、いつもより少しだけ長い呼気が必要だった。
「継続する」の四角い枠を、太い黒のインクで、ひとつ、丸で囲んだ。
印をつけてしまってから、蓮司はその歪な円を、飽きもせず見つめ続けた。
この場所に骨を埋めるつもりなど毛頭ない。
次の町へ流れ、名前も知らない場所で消える日は、そう遠くないはずだ。
白紙を差し出して窓を開ける朝は、いつか必ず訪れる。
ただ、いまはまだ、その時ではない。
あの揺れない椅子に澪が座り、自分の意志で弦に指を乗せる瞬間を。
その音が誰の視線にも怯えることなく、途中で途絶えることもなく、世界の果てまで鳴り響く瞬間を。
この耳でしっかりと見届けてから、立ち去りたい。
その不器用な願いのすべてを、たったひとつの丸の中に押し込めた。
蓮司は紙を二つに折り、茶封筒へと滑り込ませた。
フラップに糊を引き、指の腹で圧着する所作が、いつになく丁寧だった。
封筒を手に取り、事務室へ向かう。
職員たちの声が漏れる扉の前で、蓮司は一度だけ足を止めた。
これを破り捨て、白紙のまま提出して、来月にはこの町を去る選択肢も、まだ残されている。
これまでの自分なら、迷わずそうして背を向けたはずだ。
蓮司は扉をノックし、園長の不在の机の上に、その封筒をそっと置いた。
静まり返った机の上で、封をされた紙の中のひとつの丸が、確かに息づいている。
大層な誓いではない。
ただ、見届けたい。
誰に向けるでもなく、蓮司は心の中で静かに呟いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。





