第27話「次の、音へ」
うまくなることより、次に進むことのほうが難しいと思います。
あの日から、澪は毎晩、箱を開けるようになっていた。
集まりの日は来て、そして過ぎた。
澪はいつものように、いちばん後ろの壁際にいた。
みんなのほうを向いた椅子は、空のまま残された。
怖いものは、怖いままだった。
それでも、金具に指をかけることはできるようになっていた。
ぽん、と鳴らす。
もう、それだけでは終わらなくなっていた。
澪は、箱の底にしまってあった薄い冊子を取り出した。
拾ったときからケースの底に入っていた教本だった。
ページの端が雨にふやけて、波打っている。
最初のページを開くと、単純な丸と線の並びが印刷されていた。
音の並び方を示す印なのだと、澪にはそこだけなんとなく分かっていた。
指の形がいくつか、身体の奥にまだ残っている。
澪は、その最初のページの音を、ひとつずつ指でなぞった。
一の音。
二の音。
三の音。
ばらばらに鳴らすことはできた。
けれど、繋げようとすると指がもつれる。
あの大きな場所で止まってしまった手が、まだどこかに潜んでいる気がした。
澪は一度、手を止めた。
止めて、息を吸い、もう一度最初の音からやり直す。
一日めは、三の音までしかいかなかった。
二日めは、四の音でもつれて、そこでやめた。
三日めも、同じところで指が止まった。
それでも、澪は箱をしまわなかった。
開けることだけは、毎晩続けた。
朝は、うまくいかない日が多かった。
指がこわばったまま目が覚めてしまう。
布団の中で何回も指を曲げたり伸ばしたりしてから、ようやく箱の前に座る。
夕方は、少し違った。
学校から帰ってきて、外の青い時間を少し眺めてから部屋に戻ると、指の強張りがわずかに緩んでいる。
その緩みを逃さないように、澪はいちばん良い時間を見計らって教本を開くようになっていた。
廊下の向こうを、あの人が通ることがあった。
用務員の、あの人だ。
澪の部屋の前で足を止めることはない。
ただ、通り過ぎるとき、いつもより少しだけゆっくり歩く気配がした。
澪には、それがなぜなのか分からない。
分からないまま、澪はその気配が遠ざかるあいだだけ、指を休めずに動かし続けた。
足音が、廊下の奥へと消えていく。
消えてから、澪はまた最初の音に戻った。
誰かが聴いているとは、澪は思わなかった。
部屋の戸は、いつも締め切ったままだ。
音はこの狭い部屋の外へは出ていかないと、澪は信じていた。
足音が近づいてくる。
とん、とんと床を踏んで。
ひなただった。
空き缶を両手に持ってやってくる。
澪の隣に座り込んで、澪の指先をじっと見つめた。
澪は、教本のページをひなたに見せる。
ひなたは丸い目でのぞき込み、
「うた、みたいなの」
と言った。
歌ではない。澪は歌わない。
それでも、澪はうなずいた。
歌に似た何かだと、澪にも思えたからだ。
澪は、また最初の音に指を置いた。
一の音。
二の音。
三の音。
こつ、とひなたの缶が後ろからついてくる。
四の音のところで、指がまたもつれた。
音が濁って消えかける。
けれど、澪は手を止めなかった。
もつれたまま、次の音へ指を滑らせる。
濁った音のあとに、新しい音がやってきた。
上手くはない。それでも、鳴った。
澪はそのまま、最後の音まで指を動かし続けた。
ところどころ濁りながら。
ところどころもつれながら。
それでも、止まらずに。
最後の音が鳴り、薄暗い部屋の隅にこぼれて消えていく。
澪は息をひとつ吐き出した。
ひなたが缶をぎゅっと握りしめて、
「もう、いっかい」
と言った。
澪とひなたは、それから何度も繰り返した。
三回めも濁った。
五回めももつれた。
それでも澪の指は、止まるたびに、また最初から動きだした。
止まることが怖くなくなったわけではない。
ただ、止まってもそこで終わりではないのだと、澪の指が少しずつ覚えていったのだ。
何回めかで、最初から最後まで、一度も止まらずに音が繋がった。
濁りは、まだいくつもあった。
それでも、繋がった。
最後の音が消えたあとの静けさが、あの日の静けさと少し似ていた。
大きな明るい場所で、二つめの音が来なかった、あの静けさ。
――けれど、違う、と澪は思った。
あの日の静けさは、止まったまま動かなかった。
いまの静けさは、鳴り終わったあとの静けさだった。
止まったのではない。
最後まで行き着いて、それから静かになっただけだ。
その違いが、澪には嬉しかった。
嬉しいという言葉を、澪はまだうまく使えない。
ただ、胸の奥の小さな火が、少しあたたかくなった。
ひなたが缶を両手で高く掲げる。
声にならない、喜びの形で。
澪は教本のページをもう一度見つめた。
最初の音から最後の音まで、まだなぞりきれていない濁りがいくつも残っている。
その先のページには、もっと長い丸と線の並びがあった。
いつかそこまで行くのだと、決意したわけではない。
ただ、いまここにある、次の音のことだけを思っていた。
窓の外が、青く沈んでいく。
食堂の、あのみんなのほうを向いた椅子のことを、澪はふと思い出した。
それでもいまは、この教本の次のページのことだけを考えていたかった。
澪はもう一度、最初の音に指を戻す。
目を開けたまま、次の音へ指を動かした。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。





