第8話「渡す」
今日は短く。読んでくださって、ありがとうございました。
その手は、いつものように、ギターを胸へ引き寄せようとして――そうしなかった。
昼だった。
澪は部屋のすみで、ギターを膝にのせていた。
窓から入る冬の光が、飴色の胴を鈍く照らしている。
指の腹で、傷の溝を一本ずつなぞっていた。
弾いては、いなかった。
昼は、鳴らさない。
ただ、木の匂いをかいで、金具の並びを指で確かめていただけだった。
拾ったときから、澪は毎日この箱を拭いていた。
自分の持ち物にこんなに手をかけたのは、はじめてだった。
ゆうべ。
初めて、音が、つながった。
三つ。
四つ。
五つ。
澪は、今夜もその続きを弾けると思っていた。
だから、その指はまだ、ゆうべの手ごたえを覚えていた。
戸が、開いた。
いきおいよく、ではない。
手で静かに引く音だった。
戸口に、職員が立っていた。
澪は、顔を上げなかった。
けれど、耳が先に気づいていた。
その足音は、ゆうべ、廊下の奥にあった気配と同じものだ。
「白石さん」
名前を、呼ばれた。
「ゆうべ、外に出ていたね」
澪は、答えなかった。
うそも、つかなかった。
ただ、膝のうえのギターを少しだけ抱えなおした。
「夜中に、ひとりで外に出るのは、だめなの」
職員の声は、大きくなかった。
叱る声では、なかった。
どちらかといえば、困っている声だった。
「なにか、あってからじゃ、遅いから」
澪には、その言葉の意味が半分だけわかった。
夜に、出てはいけない。
それは、わかる。
けれど、なぜ夜に出るのかは、澪は、言わなかった。
公園のことも。
街灯のふちに立つ、あの男のことも。
言えば、あの夜がまるごとなくなってしまう気がした。
だから、澪は、口を閉じたままでいた。
職員が一歩、部屋に入ってくる。
「それ、あずからせてね」
あずかる、とその人は言った。
取り上げる、とは言わなかった。
けれど、澪には同じことだとわかった。
手が、伸びてくる。
澪の腕のなかの、ギターへ。
澪の手が、動いた。
いつものように。
取り上げられる前に、胸のほうへ、引き寄せようとして――
けれど、その手は、途中で、止まった。
引き寄せなかった。
澪は、抱えていた腕を、そっと、ゆるめた。
渡す、というより、手を、ひらいた。
放した手のひらに、木のぬくもりだけが残った。
職員は、ギターを胸に抱えたまま、廊下へ出ていく。
飴色の胴が、暗がりへ消える。
金具だけが、一度、光った。
澪の腕は、まだ、ギターの形のまま、空を抱えていた。
涙は、出なかった。
澪は、泣き方を、あまり知らなかった。
その日から、澪の膝のうえは、空になった。
朝、目が覚めてまず指の腹を確かめる癖は、まだ残っていた。
硬くなった皮の下に、覚えた音は、まだいる。
忘れていない。
けれど、その音を出す箱が、もうここにはなかった。
指だけが、鳴らす相手をまださがしていた。
昼のあいだも、澪は小さくしていた。
掃除のときも、ごはんのときも、何も言わない。
けれど、左手の指だけはときどき、糸のない場所を押さえていた。
夜になっても、引き出すものがない。
澪は、ベッドの下をのぞいた。
四角い跡だけが残っていた。
箱のあったところだけ、埃がなかった。
澪は消灯のあと、布団のなかで目を開けていた。
みんなの寝息が、ひとつずつ静かになっていく。
だれかが寝返りを打つ。
二段ベッドのばねが、きしむ。
最後の一人が眠って、廊下の音がはっきりと聞こえるようになる。
いつもなら、それが合図だった。
けれど今夜は、合図の先になにもなかった。
澪は、動かなかった。
布団のなかで、じっとしていた。
それでも、澪の指は動いた。
右手を、左手の甲のうえにのせる。
覚えた音を、はじめから順にたどっていく。
人差し指を、上へ。
中指を、その下へ。
指の下に、糸は、ない。
布団のなかの、なにもない暗がりを、指だけが押さえていく。
ただ、空気を押さえる。
押さえても、へこまない。
鳴りも、しない。
それでも、指は位置を覚えていた。
一つ。
二つ。
三つ。
頭のなかだけで、音がつながる。
途中で、一つ、濁った。
澪は、それをそっと直した。
直せた。
けれど、聞こえない。
暗闇のなかで、澪の指だけが、ありもしない糸の上を、静かに動いていた。
続きは明日、同じ時間に出します。




